munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

2012年06月

30 6月

駒込のお富士さんとソメイヨシノも高欄

ちょうど今日あたりから、駒込のお富士さんではないだろうか?
巣鴨寄りの改札を出て本郷通りから不忍通りを越えて少し歩くと
駒込富士神社がある。
東京に多い「お富士さん」の一つがこの駒込のお富士さん。
浅草のお富士さんは植木市などでかなり有名だが、
植木市がメインになってしまい妙に観光化されてしまった気がして
駒込や近くの十条のお富士さんの方が、個人的には好きだ。
春にブロ友さんと歩いていて目に入った橋の高欄。
イメージ 1
このすぐ近くの染井墓地は
ソメイヨシの生まれ故郷。
それは瞬時にわかったのだが、
富士山がわからなかった。
 
田端寄りの商店街で
犬を抱いて外を眺めながら
椅子の座っていらしたご婦人と
しばし長話をさせていただき、
そこでやっと気がついた。
 
上にある富士山は、駒込富士神社のお富士さんだったのだ!
20代の頃、この町に住んでいたのに失念していた。
きっと今日も多くの人がお富士さん詣に出かけているのだろうな・・・
最後に駒込のお富士さんに出かけたのはいつだっただろう?
どうしても、地方から出てきて東京に住み着いた友人たちは
浅草の方へと行きたがる。(観光地だから仕方ないのだろうが・・・)
昔、駒込は、「一富士、二鷹、三茄子」が堪能できる土地だった。
お富士さんは駒込、十条もあるということを改めて教えてくれた高欄だ。
29 6月

戦前の防火水道の蓋

東京で見つけた蓋。
以前、日銀前で同様の蓋は見つけて7年ほど前にブログでアップしているが、
この蓋の方が古い時代のものだと思う。
イメージ 1
その理由として「防火水道」の文字
が右から書いてあるということ。
 
「防火水道」という言葉自体が
戦前に使われていた上、
左から文字を書くのが戦後、
恐らく昭和25年(1950年)よりも
少し前あたりから増えてきている。
戦前でもすでに左から書くことが
あったかもしれぬが・・・・
 
だが、普通に考えて右から書いてある蓋の方が古いのではないかと思う。
この蓋は舗道の中心あたりにあり、かなり磨耗してもおかしくないのだが、
幸いにして磨耗度もさほどひどくないようだ。
 
 
過去記事の写真と見比べていただければと思う
(撮影場所は異なるが近いには近い)
     ↓
28 6月

東京市電唱歌を歩く~第2番

イメージ 1二番
左に宮城おがみつつ     東京府庁を右に見て
馬場先門や和田倉門
大手町には内務省
 
旧東京府庁の画像の出典先は
    ↓
 
宮城は皇居のこと。
昔の東京府庁の跡地は有楽町の東京国際フォーラムになっている。
この唱歌が作られた当時の東京府庁なら恐らく上の写真の建物だろう。
京都府庁や兵庫県公館の建物によく似ている。
東京府庁のこの建物は明治27年(1894年)妻木頼黄氏の設計。
鉄骨煉瓦造2階建。
写真撮影時期は大正期のようだが、建物はこの唱歌の時期にはすでにあった。
耐震補強のために床に鉄の梁や壁の水平部にも鉄を挿入した工法で
関東大震災にも生き残ったが戦災で破損し昭和23年(1948年)に解体された。
同じ工法で作られ今でも活用されている煉瓦の建物がこのすぐ近くにもある。
現在、復元修復工事中の東京駅だ。
こちらも震災では持ちこたえたが、戦災によりかなりの部分を焼失している。
が、この唱歌の時期には誰もが知っている東京駅の駅舎はまだ建てられていない。
馬場先門や和田倉門は前回記述しているので
そのまま大手町の内務省について書きたい。
和田倉門の交番の向かいには、東京銀行協会の建物がある。
イメージ 2大正5年(1916年)築。
横河工務所の松井貫太郎氏の
設計で、直営の施工だが、
現在はファザー度のみ保存で
後ろ側には高層ビル。
銀行協会の建物の先に見える
茶色の建物も同じ松井貫太郎氏
が大正9年(1920年)に設計した
日本工業倶楽部会館がある。
 
 
これもファザード保存のみで裏側はビルになっている。
そして突き当たりが東京駅だ。
これらの建築物は東京駅も含め大正時代になってから建てられている。
東京の市電の方が先に出来ている。
東京銀行協会を過ぎるとすぐに新しく建て変わったパレスホテル東京がある。
昔の建物だった時代のパレスホテルには結構よく泊まっていたのだが、
古いながらも広々とした客室から皇居のお堀が見え、
安い室料で泊まれるコネクションがあったので1人でよく利用していた。
高めの天井、重厚な感じで落ち着くためアタシにとっては
考え事やぼんやりするにはもってこいの場所だった。
平成23年(2011年)に三菱地所設計、大林組施工により23階建の
新しいホテルとして生まれ変わったようだ。イメージ 3
東京丸の内なので、やはり三菱は健在。
ちょうど、この唱歌のできる少し前に
三菱一号館が建ちそれを皮切りに
丸の内一帯は一丁倫敦と呼ばれるまでに
煉瓦の建物群が建てられ発展し、
現在の丸の内へと移り変わるのだが
このあたりは、もう誰もが知っていることなので
詳しくは書かない。
このパレスホテル東京の向こう側というか
皇居のお濠の向こうに小さく見えるのが
旧枢密院の建物。
大正10年(1921年)臨時議院建築局の
矢橋賢吉氏の設計、直営の施工。
鉄筋コンクリート2階建。
イメージ 4
現在の国会議事堂の建物の
モデル、試作品として建てられ、
現在は皇宮警察の分庁舎。
平成18年(2006年)から改修工事が始まり、確かに国会議事堂のような屋根まで復元されている。
(この写真はパレスホテルの近くからズームで撮影した)
 
 
そして、大手町までそのまま歩くと内務省のあった場所へ。
この歌の当時の内務省だと、多分この画像の建物ではないだろうか?
イメージ 5
 
画像の出典先
  ↓
 
 
 
明治6年(1873年)築。林忠恕 氏設計。
この画像と非常によく似た建物でやはり内務省(大蔵省)も
同じ林氏が設計しているのだが、こちらは日本建築学会の所蔵写真データを
参照していただければと思う。
 
内務省(大蔵省)画像
 ↓
 
何故、大蔵省の画像のURLを書いたかというと、
 
大手町には内務省
 
大手町のこの市電の道沿いにある内務省といえば大蔵省。(この当時)
他の機関もあったのだが、場所などの特定がわからなかった。
ただ漠然と歌の通りに歩いただけで、
東京都公文書館での裏づけは行う時間がなかったが、
実はこの大蔵省(内務省)があった場所には「将門公の首塚」があるので
内務省があった場所で確実に場所が特定できる旧大蔵省を
歌詞に出てくる場所とさせていただいた。
イメージ 6イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この将門公の首塚には有名な話もあり、
何を隠そうこのアタシ自身が元々神田明神の
氏子だったこともあるので、ここでは書かないが
古くからのブログ仲間であるスジャータさんの
ブログに誠に詳しく書かれているので
ぜひとも、そちらを読んでいただければと思う。
ご自身の足でも歩き、わからなければ文献を紐解く方なので
ネットで検索しただけのことをただ書き連ねるブログではないので
丸投げ状態でスジャータさんには申し訳ないのだが、
この際、スジャータさんのブログをお読みいただくのが最良だと思う。
アタシもたまに参考にする文献などを教えていただくのだが、
小難しいことを書くだけで意味不明で実は中身がないというブログも多い中、
スジャータさんのブログは大変わかりやすく細かく書いていらっしゃる。
3つの記事のわかれて書いておられるのでお読みいただければと思う。
少なくとも、アタシには絶対にここまで詳しくは書けない。
 
眼とろん星人スジャータさんのブログ
   
平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(上) 
 
平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(中)
 
平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(下)
27 6月

猫様 in 銀座

かなり以前だが、ブロ友さんと画廊に行く途中で出会った猫様。
イメージ 1
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ビルの入り口に水が入った容器が2つ置いてあり、ビルの犬矢来には
プレートが貼ってあった。
この猫様も不妊手術済みなのだろう。
特にベタベタ懐くわけでもなく、逃げるわけでもない感じの猫様だった。
この場所が温かく見守ってくれる場所だということがわかっているのだろう。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 6月

第61回活動報告 上方浮世絵館~摺り体験 その1

数ヵ月後に歌舞伎鑑賞教室のサークル予定があったので、
ちょうど芝居絵の展示をやっていた上方浮世絵館に「摺り」体験をしに行った。
難波で待ち合わせ、ミナミ周辺を歩く。
イメージ 1
 
大阪松竹座
大正12年(1923年)に作られた建物の
ファザードを残し、平成9年(1997年)に建て替えられた。
当初の建築の設計は大林組の木村得三郎氏。
施工は、大林組。
 
イメージ 2
実はアタシがサークルを立ち上げて第1回目の
活動がこの難波だった。
2006年当時とグリコは
全く変わっていないが、隣の雪印のデザインが
変わっていることに気づく。
あの当時は、橋の工事中でアクリルの壁が
橋につけられていたが、今はもうはずされている。
そしてグリコの反対側にあったキリンプラザ大阪はもうなくなっていた。
2008年に取り壊されてしまったがアタシの好きな高松伸氏の作品だった。
グリコのビルも、同じ高松伸氏の作品だが、こちらはまだ健在。
イメージ 4
 
GATE-J(左の写真)
狩野忠正氏(当時は竹中工務店だった)の設計。
こちらも健在でほっとする。
 
イメージ 5 (右の写真)
 旧精華小学校
 昭和4年(1929年) 
 増田建築事務所設計
 松村組施工
 
第1回目の活動で一緒に回ったメンバーも
この日は参加していたので、
イメージ 6思い出しながら見て歩く。
路地の間から新歌舞伎座が見える。
昭和33年(1958年)築。
村野・森建築事務所(村野藤吾氏)設計。
大林組施工。RC造、一部鉄骨。地上5階地下2階建。
こちらは、2009年に閉館し。
結婚式場の会社が複合施設を作る計画でおり、
建て替えの予定になっているようだ。
 
そしてランチをとるために法善寺横町方面に向かう。
上方浮世絵館は、法善寺の横にある。
イメージ 7
そして、くいだおれ太郎さんの看板に吸い寄せられ
何故か、昼食そっちのけでくいだおれ人形と一緒に
全員くいだおれ太郎さんと同じメガネをかけて
太鼓の撥を手に持って記念撮影。
1000円払うと日付入りの写真を撮ってもらえるが
自分のカメラを係員の人に渡せば撮影してくれる。
自分たちのカメラで撮ってもらったあと、
記念写真を買うことにした。
やっと、法善寺横丁へ。500円の定食を食べ
上方浮世絵館へ向かう。
 
 
イメージ 9
イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平成13年(2001年)にオープンした
上方浮世絵館。
 
                     魚が泳いでいるかのようにデザインされており、イメージ 3蔵をイメージして作られたそうな。
フレスコ画家の方の設計によるものだそうだ。
上方浮世絵についての簡単なレクチャーを館長さんにお願いしていたので、
展示品を見る前に一番上のフロアへ行く。
上方浮世絵は江戸の浮世絵と違って、歌舞伎役者の役者絵が多いのだそうな。
その昔、この近辺(大阪松竹近辺)にはいくつもの芝居小屋があったそうだ。
館長さんのお話を聞きながら、この場所にこの美術館ができたのを納得する。
江戸時代には道頓堀通りに8つもの
劇場があったとのこと。
現在は、松竹座1つを残すのみとなった。
 
そして、いよいよ「摺り」体験に入るのだが、写真も増えてきたので
続きはまた次回にまわしたいと思う。
 
グリコの道頓堀複合施設、キリンプラザ大阪の過去記事はこちら
           ↓
 
グリコの看板絵の変化についての過去記事はこちら
           ↓
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