この前の冬だったか、メールが来た。
5年前まで別のサークルで一緒だった人で、アタシが自分のサークルを
立ち上げた時にその人は海外に赴任。
5年の間に海外から帰国、現在はご結婚なさり東京にいらっしゃるとのこと。
海外に行かれる前に見ていてくださったこのブログを探し当てて
連絡くださったのだそうな。
「ぜひ、東京でもやってください。」と言う嬉しいお言葉を受けて
今回は平日の街歩きとなった。
思いっきり、ベタなところで谷中方面にした。
今、流行の「谷根千」ツアーなのだが、レトロな町並みを歩くだけの活動ではなく、
わざとぐるぐる回りながら、地形や街の違いを感じ取ってもらうコースをとった。
まずは、朝10時JR日暮里駅で待ち合わせ。
5年ぶりの再会だが、全く変わらない元気そうなDさん。
この付近は有名な街歩きコースなので、ガイドブックもたくさんある。
なので、今回はアタシが知っている限りの説明をしながらの案内となった。
かの有名な日暮里の夕焼けだんだんのすぐ脇にある、七面坂。
そこを下る途中にある左官屋さんのお宅の鏝絵を勝手に見学。
ガレージの中の壁にも虎の鏝絵があった。
左の戸袋には「自力更正」、
右の戸袋には浜千鳥が描かれており、
窓の下には、緑の眼の龍の鏝絵。
実は、東京にはモルタル鏝絵が結構多い。
逆に関西では漆喰鏝絵やモルタル鏝絵は
少ないように思う。
「左官科職業訓練指導員」と書かれた
琺瑯看板が貼られていた。
左官業とともに職業訓練学校での指導も
されていらっしゃるのだろう。
それゆえに「自力更生」と描いてあるのか?
ちなみにこの浜千鳥も龍も「水」にちなんでおり
火事除けの意味がある。
火事避けの水にちなんだ物で
「青海波(せいがいは)」の話に
なったところ、ちょうど良いサンプルと言っては
誠に失礼なのだが、モルタルを鏝で「青海波」の形に塗ってある商店の前に来た。
口で説明するよりも、見てもらった方が早い。
正面はハリボテで中に一般家屋がすっぽりと
収まっている、看板建築だ。
そして、団子坂まで歩きそこから本郷方面へと歩く。
街の様子が変わるのが歩きながらだとよくわかる。
弥生周辺を通り抜け、本郷追分方面へと向丘を抜ける。
団子坂を上がった弥生町で発見された土器は弥生式土器と名づけられたこと
などを話しながら、向丘のお屋敷街を歩き本郷通りへ出る。
本郷台地の名の通り、本郷が少し高い場所に
あるのがよくわかる。
そして、向こうにはスカイツリー。
アタシはスカイツリーに興味はないが
歩いていて、自分が今どこにいるのか
方向を確かめるためには、
スカイツリーは便利かもしれない。
「本郷追分」を通り八百屋お七はこの辺りだよ
などと言う話などをし、旧町名の話をしながら
本郷通りを東大農学部方面に歩く。
あの有名な「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の川柳にもなった「かねやす」よりも更に奥まった方にある、この本郷追分。
江戸時代の後半になって「墨引き」と言われる町奉行の管轄内にはなったものの
追分から駒込方面は江戸市中ではなく、豊島郡だ。
追分というと、東京の人間がすぐに思い浮かぶのが「浅草」と「新宿」だ。
今回、一緒に歩いたDさんは関西出身の方なので、
この「浅草」と「新宿」に関して「江戸市中」との関連性を説明しておいた。
Dさん、頭の良い方なので「内藤新宿」の言葉を聞き、すぐに理解してくださった。
現代においては、どこもかしこも「下町」になってしまっているので
余計、わかりにくくなっているのだが、東京は江戸城を中心に江戸市中が
広がっており、何代も住み着いた人間でないと「下町」の定義のようなものが
理解されないことが多くなってしまう。
だから、あえて本郷台地を歩いてもらった。
ここから先は、豊島郡。
文京区本駒込や豊島区駒込がある。
本郷台地の下の千駄木などは元は駒込林町。
かなり細かい地図をお持ちになっていらしたので、そのあたりの地名からも
位置関係を想像できるだろう。
今さら何故、下町の区分を説明するのには理由がある。
低い土地の下町と違い、東京の場合は江戸城を中心にして広がり発展したので
その地域によって武家町や寺町、商人町、職人町などに分かれるからだ。
だから、今、普通に下町、下町と言われている場所はごく最近になって
下町と言われだしたものの、本来の下町とは違うのだということを
知ってもらう。
それがわからないと、何故ここがお屋敷ばかりなのか?
何故ここには、こういう職業の人が多かったのか?などということが
理解できなくなってしまうからだ。
そのあたりをざっくりと大雑把に話をし、、街の色の違いや気質の違いを
感じ取ってもらいながら東京大学に。
ちょっと写真もかなり増えてしまったので続きは次回に・・・