munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

2006年07月

31 7月

青海波の戸袋

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これも鳥越で見つけた戸袋。
銅版でできており、青海波の戸袋。
隣は麻の葉の柄の戸袋になっている。
青海波と書いて、「せいがいは」と読む。
31 7月

東京日日新聞と書いてある琺瑯看板

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関西に住む前まで、このお宅の近くに住んでいた。
この花嫁さんの看板も年々色は薄くなっていく。
生まれ育ったのも、ここからそんなに遠くはないので子供の頃からこの建物は見ていた。
それだけに、惰性というものは怖い。
この花嫁さんの看板とは反対の方に青い小さな琺瑯看板がついている。
「蔵前橋通」と書いてある。
これも子供の頃から見慣れてしまっていたので、あ、琺瑯看板だ、と思って写真にだけは
撮ってあったのだが、先日、再びこれを撮影し直した時に気がついたのだが、
「蔵前橋通」(もちろん、文字は右書き)の下に「東京日日新聞」と書いてある。
以前、何回かここは撮影しているのだが、この「東京日日新聞」はもうない、というここと、
どうせ、昭和23年とかそのくらいにその新聞社はなくなっているのだろう、などと
勝手に想像していた。
「蔵前橋通」と右書きで書かれているので、戦後すぐくらいの住居表示の簡略版だろうと
一人で思い込んでいたのだが、先日だけは違った。
何故か、「東京日日新聞」が気になる。
調べてみたら、
    明治5年(1872年) 2月21日に東京初の日刊紙として浅草で創刊。
    明治8年(1875年) 世界初の戸別配達を実施
    明治9年(1876年) 2月20日に大阪日報創刊
    明治21年(1888年)大阪毎日新聞と改題
    明治44年(1911年)東京日日新聞と大阪毎日新聞合併
    昭和18年(1943年)東京と大阪の題号を「毎日新聞」に改める

昭和18年に毎日新聞になったのなら、少なくともこの琺瑯看板はそれ以前の物になる。
何月に改題号となったのかはわからないが、恐らく2月ではないだろうか?
東京も大阪もどちらも2月末に創刊しているからだ。
その推測が正しいとすれば、昭和17年以前の物ではないだろうか?
60年以上も前からここで、車の往来を見届けてきたのだろう・・・・
多分、45年くらい前に花嫁さんをもらって今でも一緒にいる。
花嫁さんも歳をとって、色あせてしまってはいるがこのままここに一緒にいるだろう。
ただ、ちょっと古くていい感じだなぁ~などと思っているだけだった。
それを写真に記録することまでは良かった。
ついでにこの建物に琺瑯看板がついていることに気がついたことも良かった。
その写真の記録したことも、とても良かった。
だが、記録しただけで何の疑問も抱かずにそのまま「古い琺瑯看板」とだけしか考えていなかった。
この「東京日日新聞」を調べてみようなどとは、つゆにも思ってはいなかったのだ。
気になって良かった。
気にならなかったらば『東京日日新聞』が現在の毎日新聞の前身であり、
この名称がすでに戦前に消えていることも知らなかったはずだ。
やはり、惰性で物を見ているとこういう見落とし、無関心が多い。
無関心というのが一番やっかいなのだ・・・・



    
31 7月

第7回活動報告 その1(須磨・舞子)

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今回の活動は夏場と言うこともあり、かなり観光気分の活動だった。
気温が高い中を歩き回るのは得策ではないので、ほとんど歩かずにすむコースを作ったのだが、
道を勘違いして通りすぎてしまったので、結局10分程度歩くところが30分近く歩くはめに
なってしまった。
まずJR須磨駅に集合し、タクシーで須磨観光ハウスに行く。
アタシの乗ったタクシー運賃は740円だった。他の人たちの乗った車のも恐らくそうだろう。
ここは、「須磨 観光ハウス 味と宿 花月」というのが正式名称になっているようだ。
食事だけでもOKなので、まずここで建物の外観の写真を撮ったあとすぐに昼食。
昭和12年(1937年)築、設計 神戸市営繕課、 施工 中元庄吉氏 で、
煉瓦・木造3階建てとなっている。
なんでも、スイスの山荘を模し建てられた旅館だそうな。
写真1枚目に見られるような、梁や筋違などをそのまま家の外に見せるように
作るハーフティンバータイプは、昭和初期の住宅建築で流行した。
この写真のこげ茶の柱とも板とも見えるものがそうだ。
玄関から土足のまま中に入り(写真2枚目)、レストランで食事を摂る。
ランチで1680円也。これに、デザートとコーヒーがつく。(写真3枚目)
レストラン(写真4枚目)からは海が見渡せる。
かなり広めの個室もあり(写真5枚目)、こちらは普段は予約席になっているようだ。
レストランを出て、右にすぐのところに階段があり(写真6枚目)、
そこから宿泊施設へつながっているようだ。
結局、この須磨観光ハウスには食事時間も含めて2時間以上いた。
続きは次回の更新時に・・・・
30 7月

熱い視線・・・・

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車に乗っていた時に何やら強い視線を感じた。
外を見ると電信柱の間からこちらを見ている男性が・・・
ちょうど運良く信号待ちになってくれたので、写真に収めることができた。
もうこのお店はしまっているように見えた。
よく見ると、白っぽい建物の壁に原爆が・・・
妙にインパクトのある看板だった。
30 7月

鳥取の辰野金吾氏の作品らしい建物

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昨日、鳥取で見つけた建物。
そういえば、途中の道の駅に写真があったよな気がしないでもなかったのだが・・・
車で走っていて「あ!」と思った。
だが、車は急には止まれないしどこでもUターンできるものでもない。
仕方ないので、ずっと先まで走ってから戻ってきて写真を撮ることにした。
だが、これは大きな会社の敷地内にある。
その会社の守衛さんに聞いてみたら、この建物はかなり有名らしい人の作品で
昔は鳥取大学の建物だったという。
でも、入り口の先に説明の看板があるから見た方が良いと言われたので、
とりあえず守衛さんのいらっしゃる場所からの撮影の許可をいただく。
あまり、ずうずしく入り込んで写真を撮るのも失礼なので、
門扉ギリギリの所から撮らせていただいた。
で、その看板を見ると・・・
なんと、辰野金吾氏が基本設計を行ったらしい。
大正10年(1921年)に鳥取高等農業学校の一部だけなのだが、保存したそうな。
昔はこの建物だけでなく裏手にも同じような建物がたくさんくっついて建っていたらしい
のだが、これのみをのこしてあとは解体したらしい。
この会社はかなり大きな会社なので、残された建物の維持に関しては問題ないだろう。
ここは実際には何に使われているのか聞いてみようとしたら、この守衛のお仕事が
ちょっと忙しくなってきてしまったので、あえて聞かずに帰ることにした。
下手な職務の妨害はやらない方が良いに決まっている。
このまま写真だけ撮って帰れば守衛さんの仕事の邪魔にもならない。
と、いうことで引き上げることにしたのだが、車に戻った直後ものすごい豪雨で
逆に何も聞かずに帰ってきて良かったと思った。
写真は撮っていないのだが、土台の部分は辰野氏らしく煉瓦になっていた。
どうも、辰野金吾さん=煉瓦建築としか思い浮かばなくなってしまっている。
やはり、頭が固い・・・・
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