護王神社を地下鉄の丸太町駅方面に少し行くと、旧有栖川宮邸がある。
明治2年(1869年)に建てられ明治24年(1891年)に現在の場所に一部移築したもので
もともとは、京都御苑内の大宮御所のすぐ近くにあったそうだ。
蛤御門から大宮御所、仙洞御所に行く時に必ず前を通るのだが、
「有栖川宮邸跡』と書かれた碑が建っているのに、実は先日初めて気がついた。(写真2枚目)
この前を通ったのが初めてではないのに、今まで全く知らなかった。
京都御苑内の広い芝の植え込みのような場所になってしまっているので、
このような碑でもなければ、ここに旧宮家の建物が建っていたということがわからなくなってしまう。
有栖川宮家は大正2年(1923年)に一族の薨去により絶家している。
その後、建物は平成19年(2007年)まで京都地方裁判所所長宿舎として使用されたが、
平成20年(2008年)に平安女学院の所有となり、名称が『平安女学院有栖館』となった。
ちょうど、平安女学院の聖アグネス教会の道を挟んだ向かいに位置している。
青天門(写真3枚目)をくぐり、中に入るのだが、実はこの門、もともとは、
有栖川宮家の門ではなかったのだそうだ。
大正元年(1912年)に三井一族総長の三井氏高保氏が自邸の門として新築した後、
他の場所に移築したのだが、昭和27年(1952年)にそれを裁判所が購入し
裁判所所長宿舎の表門としてこの地に移築しなおしたものだそうな。
建物の中に入るとかなり広い和室があるのだが、実は以前は玄関よりの方の座敷は
能舞台になっており、板張りだったのを後年になって座敷に変えたものだそうな。
能舞台、和室、そしてボックス型に見えるのが、上段の間だ。(写真4枚目)
5枚目の写真に欄間が写っているが、この欄間が能舞台と和室の境目になっており、
写真に見える奥の方の座敷がかつては能舞台だったそうな。
宮家住宅や公家住宅の『天井を1つして欄間を透かしにすることによって、部屋を広く見せる演出』
と、いうものがここにもあるのかな?と思ったのだが、それは見当たらなかった。
特にこの部屋においては、欄間の上には漆喰がきちんと塗られていた。
この和室を取り囲むようにあるのが、「鞘の間」と呼ばれる座敷廊下のようなもので、
その外側が庭に面した縁側となっている。
「上段の間」の付書院の外側の火燈窓の上には龍が彫られている。
なんでも、古来、中国では龍の爪を描く際、五本の爪は最高位の「皇帝」を表すものなので
それ以外は、「三本の爪」で描くのが一般的だそうな。
宮家とはいえども、天皇家ではないので「三本の爪」だそうな。
平安女学院の方がマイクで説明をしてくださっているのだが、
しきりに有栖川宮家を『公家』と連呼されていたが、間違っている。
宮家と公家は別物であり、有栖川宮家は絶家したとはいえ立派な「宮家」である。
そもそも、公家に●●●宮などという風に、苗字に宮の字がつくはずがないのだ。
有栖川宮家は公家なので、三本の爪の龍だと説明されていらっしゃったが、
そこまでの意味はなく、当時、一般的に龍は三本の爪というのが普通だったのではないだろうか?
ましてや、公家ではなく宮家なので中国にならうということが明治になってからの
我が国においては、時代的にちょっと考えにくいような気もする。
あの時、何気にふんふんと聞いていたのだが、家に帰ってよくよく考えてみたら疑問が残る。
最後の写真はその爪のアップだ。
3本爪になっているが、これはあまり考えない方が良いのではないだろうか?
かなり写真が増えてしまったので、続きは次回・・・
明治2年(1869年)に建てられ明治24年(1891年)に現在の場所に一部移築したもので
もともとは、京都御苑内の大宮御所のすぐ近くにあったそうだ。
蛤御門から大宮御所、仙洞御所に行く時に必ず前を通るのだが、
「有栖川宮邸跡』と書かれた碑が建っているのに、実は先日初めて気がついた。(写真2枚目)
この前を通ったのが初めてではないのに、今まで全く知らなかった。
京都御苑内の広い芝の植え込みのような場所になってしまっているので、
このような碑でもなければ、ここに旧宮家の建物が建っていたということがわからなくなってしまう。
有栖川宮家は大正2年(1923年)に一族の薨去により絶家している。
その後、建物は平成19年(2007年)まで京都地方裁判所所長宿舎として使用されたが、
平成20年(2008年)に平安女学院の所有となり、名称が『平安女学院有栖館』となった。
ちょうど、平安女学院の聖アグネス教会の道を挟んだ向かいに位置している。
青天門(写真3枚目)をくぐり、中に入るのだが、実はこの門、もともとは、
有栖川宮家の門ではなかったのだそうだ。
大正元年(1912年)に三井一族総長の三井氏高保氏が自邸の門として新築した後、
他の場所に移築したのだが、昭和27年(1952年)にそれを裁判所が購入し
裁判所所長宿舎の表門としてこの地に移築しなおしたものだそうな。
建物の中に入るとかなり広い和室があるのだが、実は以前は玄関よりの方の座敷は
能舞台になっており、板張りだったのを後年になって座敷に変えたものだそうな。
能舞台、和室、そしてボックス型に見えるのが、上段の間だ。(写真4枚目)
5枚目の写真に欄間が写っているが、この欄間が能舞台と和室の境目になっており、
写真に見える奥の方の座敷がかつては能舞台だったそうな。
宮家住宅や公家住宅の『天井を1つして欄間を透かしにすることによって、部屋を広く見せる演出』
と、いうものがここにもあるのかな?と思ったのだが、それは見当たらなかった。
特にこの部屋においては、欄間の上には漆喰がきちんと塗られていた。
この和室を取り囲むようにあるのが、「鞘の間」と呼ばれる座敷廊下のようなもので、
その外側が庭に面した縁側となっている。
「上段の間」の付書院の外側の火燈窓の上には龍が彫られている。
なんでも、古来、中国では龍の爪を描く際、五本の爪は最高位の「皇帝」を表すものなので
それ以外は、「三本の爪」で描くのが一般的だそうな。
宮家とはいえども、天皇家ではないので「三本の爪」だそうな。
平安女学院の方がマイクで説明をしてくださっているのだが、
しきりに有栖川宮家を『公家』と連呼されていたが、間違っている。
宮家と公家は別物であり、有栖川宮家は絶家したとはいえ立派な「宮家」である。
そもそも、公家に●●●宮などという風に、苗字に宮の字がつくはずがないのだ。
有栖川宮家は公家なので、三本の爪の龍だと説明されていらっしゃったが、
そこまでの意味はなく、当時、一般的に龍は三本の爪というのが普通だったのではないだろうか?
ましてや、公家ではなく宮家なので中国にならうということが明治になってからの
我が国においては、時代的にちょっと考えにくいような気もする。
あの時、何気にふんふんと聞いていたのだが、家に帰ってよくよく考えてみたら疑問が残る。
最後の写真はその爪のアップだ。
3本爪になっているが、これはあまり考えない方が良いのではないだろうか?
かなり写真が増えてしまったので、続きは次回・・・