関西に住む前まで、このお宅の近くに住んでいた。
この花嫁さんの看板も年々色は薄くなっていく。
生まれ育ったのも、ここからそんなに遠くはないので子供の頃からこの建物は見ていた。
それだけに、惰性というものは怖い。
この花嫁さんの看板とは反対の方に青い小さな琺瑯看板がついている。
「蔵前橋通」と書いてある。
これも子供の頃から見慣れてしまっていたので、あ、琺瑯看板だ、と思って写真にだけは
撮ってあったのだが、先日、再びこれを撮影し直した時に気がついたのだが、
「蔵前橋通」(もちろん、文字は右書き)の下に「東京日日新聞」と書いてある。
以前、何回かここは撮影しているのだが、この「東京日日新聞」はもうない、というここと、
どうせ、昭和23年とかそのくらいにその新聞社はなくなっているのだろう、などと
勝手に想像していた。
「蔵前橋通」と右書きで書かれているので、戦後すぐくらいの住居表示の簡略版だろうと
一人で思い込んでいたのだが、先日だけは違った。
何故か、「東京日日新聞」が気になる。
調べてみたら、
明治5年(1872年) 2月21日に東京初の日刊紙として浅草で創刊。
明治8年(1875年) 世界初の戸別配達を実施
明治9年(1876年) 2月20日に大阪日報創刊
明治21年(1888年)大阪毎日新聞と改題
明治44年(1911年)東京日日新聞と大阪毎日新聞合併
昭和18年(1943年)東京と大阪の題号を「毎日新聞」に改める
昭和18年に毎日新聞になったのなら、少なくともこの琺瑯看板はそれ以前の物になる。
何月に改題号となったのかはわからないが、恐らく2月ではないだろうか?
東京も大阪もどちらも2月末に創刊しているからだ。
その推測が正しいとすれば、昭和17年以前の物ではないだろうか?
60年以上も前からここで、車の往来を見届けてきたのだろう・・・・
多分、45年くらい前に花嫁さんをもらって今でも一緒にいる。
花嫁さんも歳をとって、色あせてしまってはいるがこのままここに一緒にいるだろう。
ただ、ちょっと古くていい感じだなぁ~などと思っているだけだった。
それを写真に記録することまでは良かった。
ついでにこの建物に琺瑯看板がついていることに気がついたことも良かった。
その写真の記録したことも、とても良かった。
だが、記録しただけで何の疑問も抱かずにそのまま「古い琺瑯看板」とだけしか考えていなかった。
この「東京日日新聞」を調べてみようなどとは、つゆにも思ってはいなかったのだ。
気になって良かった。
気にならなかったらば『東京日日新聞』が現在の毎日新聞の前身であり、
この名称がすでに戦前に消えていることも知らなかったはずだ。
やはり、惰性で物を見ているとこういう見落とし、無関心が多い。
無関心というのが一番やっかいなのだ・・・・
この花嫁さんの看板も年々色は薄くなっていく。
生まれ育ったのも、ここからそんなに遠くはないので子供の頃からこの建物は見ていた。
それだけに、惰性というものは怖い。
この花嫁さんの看板とは反対の方に青い小さな琺瑯看板がついている。
「蔵前橋通」と書いてある。
これも子供の頃から見慣れてしまっていたので、あ、琺瑯看板だ、と思って写真にだけは
撮ってあったのだが、先日、再びこれを撮影し直した時に気がついたのだが、
「蔵前橋通」(もちろん、文字は右書き)の下に「東京日日新聞」と書いてある。
以前、何回かここは撮影しているのだが、この「東京日日新聞」はもうない、というここと、
どうせ、昭和23年とかそのくらいにその新聞社はなくなっているのだろう、などと
勝手に想像していた。
「蔵前橋通」と右書きで書かれているので、戦後すぐくらいの住居表示の簡略版だろうと
一人で思い込んでいたのだが、先日だけは違った。
何故か、「東京日日新聞」が気になる。
調べてみたら、
明治5年(1872年) 2月21日に東京初の日刊紙として浅草で創刊。
明治8年(1875年) 世界初の戸別配達を実施
明治9年(1876年) 2月20日に大阪日報創刊
明治21年(1888年)大阪毎日新聞と改題
明治44年(1911年)東京日日新聞と大阪毎日新聞合併
昭和18年(1943年)東京と大阪の題号を「毎日新聞」に改める
昭和18年に毎日新聞になったのなら、少なくともこの琺瑯看板はそれ以前の物になる。
何月に改題号となったのかはわからないが、恐らく2月ではないだろうか?
東京も大阪もどちらも2月末に創刊しているからだ。
その推測が正しいとすれば、昭和17年以前の物ではないだろうか?
60年以上も前からここで、車の往来を見届けてきたのだろう・・・・
多分、45年くらい前に花嫁さんをもらって今でも一緒にいる。
花嫁さんも歳をとって、色あせてしまってはいるがこのままここに一緒にいるだろう。
ただ、ちょっと古くていい感じだなぁ~などと思っているだけだった。
それを写真に記録することまでは良かった。
ついでにこの建物に琺瑯看板がついていることに気がついたことも良かった。
その写真の記録したことも、とても良かった。
だが、記録しただけで何の疑問も抱かずにそのまま「古い琺瑯看板」とだけしか考えていなかった。
この「東京日日新聞」を調べてみようなどとは、つゆにも思ってはいなかったのだ。
気になって良かった。
気にならなかったらば『東京日日新聞』が現在の毎日新聞の前身であり、
この名称がすでに戦前に消えていることも知らなかったはずだ。
やはり、惰性で物を見ているとこういう見落とし、無関心が多い。
無関心というのが一番やっかいなのだ・・・・
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