munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

2010年06月

30 6月

市ヶ谷記念館(旧陸軍士官学校本部)

現在の防衛省の敷地内にある建物で、もともとこの敷地内にあった建物を
自衛隊駐屯地から防衛省となる際に敷地内での移転、復元をしたそうな。
設計は当時の陸軍省経理局建築課の池田某。
他の文献によると、陸軍第一師団経理部と書いてあるのだが
旧陸軍では、建築の管轄は経理局だったのでそのような扱いに
なっているのだろうか?
施工は鴻池組とあともう1社の会社が請け負ったそうなのだが、
もう1社の方がどこの会社なのだかは、よくわかっていない。
案内してくださったコンパニオンの女性ではなく本省直属の技官の方に
直接尋ねて聞いたところ、そのような回答をいただいた。
昭和9年(1934年)築の建物で、もともとは陸軍士官学校本部として建てられた。
この地は、大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部があった場所でもあり
特にこの建物は昭和20年(1945年)8月に米軍に接収後、
極東軍事裁判(東京裁判)の法廷としても使用された。
日本の歴史舞台の生き証人のような建物でもある。
一番、記憶に新しい事件は、あの三島由紀夫氏の割腹事件だろう。
三島氏が立てこもった建物がこの建物である。
実際に建っていた場所からわずか数百メートル西に移築保存されている。イメージ 1
 
移築復元に際しては、
歴史的事件に関わった部屋だけを
そのまま移築復元したとのことで
部屋の位置などは建築当時とは
かなり違っているのだが、
それでも陸軍という性質上か
昭和天皇の来場をかなり意識した
設計になっているのが興味深い。
昭和天皇と陸軍の関係は
書かなくともおわかりだろう。
イメージ 2イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大講堂に入るとすぐ突き当たりには「玉座」。
この部屋が極東軍事裁判に使われた部屋で
床の木材もすべてそのまま移築をしたとのこと。
 
この玉座から扉を見ると(わからないように)、扉の方の床が少しづつ高くなっていて扉を開けた時に玉座が、はるかかなたの遠くにあるかのように見せる遠近法を
使っているそうな。
イメージ 4
試しに床にカメラを置いて写真を
撮ってみたところ、やはり入り口の
扉の方が高くなっているのが
左の写真でもわかると思う。
また、玉座の裏側にある階段なども一般人用とは別に玉座に上がる昭和天皇専用の階段があるのだが、階段の昇降に足の運びがスムーズに行くようにわざと、
階段のステップを逆方向に撓ませてある箇所が今でも残っている。
職人の心遣いというか、一見地味な細工だが日本の誇るべき「技」でもある。
ここにはかなり貴重な資料が展示されており、フラッシュを使用しなければ
展示物の撮影も可能なのだが、痛ましい感じがして撮影する気にはなれなかった。
壁などは、完全に現代の材料で復元してありボードを凹凸に組み合わせて
市松模様にしたり、明かり取りの天窓の感じは、どことなく「旧甲子園ホテル」の
イメージにも近いような感じがしなくもない。
関西にある旧甲子園ホテルの東ホールやヨドコウ迎賓館の色の使い方などと
非常によく似ている感じだ。 
イメージ 5左は玉座から見下ろした大講堂。
突き当たりに見える二階部分が
極東軍事裁判では一般傍聴席に
なっていたそうだ。イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二階にあがると、「旧便殿の間」と「旧陸軍大臣室」。
旧便殿の間は、陸軍士官学校時代の昭和天皇の休息の部屋だった場所で
現在のようなエアコンなどの冷暖房がない時代に、壁と壁との隙間に大きく幅をとり
その隙間に冷たい冷気や暖かい暖気を送り込み冷暖房を行ったそうな。
イメージ 7
窓の上部にある通気孔と思われた部分は
実は、冷暖房用の孔だったのだ。
そのためにこの孔の側面にある部分が
分厚くなっているのだそうな。
この便殿の間は、その後は陸上自衛隊の
幹部学校の校長室として使用されたそうで
特に華美な装飾などはない。
そして、その隣には旧陸軍大臣室。
この部屋はもともとこの場所にあった部屋では
ないのだが、「保存・復元」にあたって
建物の内部での移転をしている。
こちらも飾りっ気のない部屋なのだが
あの三島事件の起こった部屋でもある。
戦後は、陸上自衛隊東部方面総監室」だった。
 
あの事件が事件だけに、保存されたのは三島氏がつけた刀傷のついた扉だけ。
あとはおおまかな部屋だけのようだ。
見学者の大半が団塊の世代以上の方々だったので、何故かこの刀傷だけは
皆さんが非常に興奮しておられ撮影されていた。
三島氏が演説をなさっていたバルコニーも建物の内部から見ることができる。
陸上自衛隊駐屯地から防衛省になり、以前この建物についていた「桜」の
マークは現在ははずされて記念館入り口に時計とともに飾られているが、
YOU TUBEなどで探せばこの建物の画像がたくさんあるので
検索されてはいかがだろうか?
この建物で起こった事件をただ、好奇の目だけで見るのではなく
その本質までも思慮していただきたい。
そのために防衛省もこの建物を移築、復元したはずだろうから。
その歴史や背景をある程度知った上で訪れるべき場所でもあると思う。
アタシ自身も勉強し直して機会があれば再訪しお話を伺ってくるつもりだ。
26 6月

雨の中、友、遠方より来たる。しかし・・・

うちの猫3匹たちが我が家にやってきたのは3年前の6月の半ば。
神戸から新幹線で当時住んでいたマンションにやってきた。
それから2年半たち、現在の築60年の古い家に引っ越してはや半年。
古くて虫だらけの家だが、窓から見える山や畑、近所の民家や鳥などを眺め、
思いっきり家の中を走り回れる環境は、猫たちには良かったと思っている。
隣接する両隣の家は空き家で誰も住んでいないので、
夜中の運動会でもなんでもOKの状態で毎日、真夜中にとんでもない音をたてて
運動会が行われている。
2階の窓から、ブロガーさんにいただいたキャットタワーから
外を見るのがギョロちゃんの最近の楽しみでもある。
我が家の2階の窓のすぐ外は、空き家になっている隣の物干し台だ。
ある晩、1匹のキジ猫が物干し台から我が家の2階の窓の下にやってきた。
一番最初にその猫を見つけたのは、グレーのパチロー。
この子はただ、見てるだけ・・・
それを見たギョロちゃんがすぐさま、キャットタワーの上から窓の外の子を凝視。
ギョロちゃんも最初は怯えていたが、すぐに慣れたようで
それから毎日、夜の7時過ぎから朝方にかけてそのキジ猫は
何度も網戸の外にやってくるようになった。
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あまり若くもない、毛がボソボソになった猫。
毛がボソボソなのは恐らく、痩せてしまったからだろう。
毎日、網戸越しにただ見つめあうだけの関係。
威嚇するわけでもなく、鳴くわけでもなく・・・・
このキジ猫との良い関係は黒猫と青猫のみの関係だった。
なぜか、長毛の虎王はこのキジ猫の存在を長い間知らなかった。
いつも、ギョロちゃんが無言の会話をしている間、全く別の離れた場所で
外を見たりしていたからだろう。
アタシたちはこのキジ猫を「ギョロちゃんのお友達」と呼んでいた。
なぜか、青猫のパチローはあまり興味を示さずこの猫が来ると
しばらく見たあとすぐに飽きてしまうのか、近くの人間のベッドの上に上がり
そこで毛づくろいをしたりしながら寝てしまっていた。
ギョロちゃんはこの「お友達」が窓辺を立ち去り姿が見えなくなりまで
いつも黙って見送っていた。
この窓は、雨が降っていなければいつもギョロちゃんたちのために
開け放してあるのだが、昨日は雨のために締め切っていた。
この雨の中、「お友達」もやってこないだろうと思ったからだ。
夜の10時くらいだろうか?かなり雨が降っていたのだが
ものすごい猫の鳴き声が聞こえた。
近所で野良猫同士が喧嘩しているのかと思っていたのだが
なんだか、ものすごく近くで聞こえる気がした。
まさか?と思い2階に上がって行くと、階段を上がりきったところで
パチローが寝そべっている。
すぐ隣の小部屋に入るとギョロちゃんが佇んでいた。
その奥のベランダのある部屋に行くと、虎王が「お友達」に向かって叫んでいた。
イメージ 3
 
網戸の向こうには「お友達」。
虎王は毛を逆立てて唸っていた。
 
いつもの窓のところから、
猫なら隣家の屋根づたいに
ベランダの方にも回って来られる。
 
雨だが、ギョロちゃんとお話しに
来て窓が閉まっていたので
ベランダに回ったのだろう。
 
遊びに来て、いきなり毛の長い猫に唸られたものだから「お友達」も怖かったはず。
お互いに唸りあいを続けたあと、ギョロちゃんがなかなか姿を見せないので
そのうちに帰って行った。
その後、ギョロちゃんが激怒!
「お友達に何をするんぢゃ!ボケ~~」とでも言わんばかり。
今まで、見たこともないような目つきと態度で、体を丸めながら虎王に寄って行った。
虎王がギョロちゃんにやっつけられる!と思った瞬間、
ギョロちゃんに服従のような態度を虎王がとり、その場は収まった。
いつも、おとなしいギョロちゃんだが、もしかしたらやはり我が家の中では
一番の権力者なのかもしれない。
イメージ 4
生まれて半年くらいしか生きられないから、だから、体も小さいのだと
獣医さんに言われてから丸2年。
 
小さいどころか、一番太っていて
8キロをゆうに越えている。
そのくせ、轟音をたてて走り回る。
2階で押入れなどから飛び降りると
まるで地響きのような振動が階下に
伝わるくらいの大きさだ。
 
 
最近は、後ろ姿が黒い仔熊に見えることがあるくらいだ。
 
イメージ 5
パチローは色は青いが、多分ギョロちゃんとは兄弟だと思われる。
それだけに仲も良い。
最近、やっと本棚の上に上れるようになった。
虎王は軽いのでどこにでも上れる。
大猫のギョロちゃんも平気で
この上には上るのだが、
パチローは、今月になってやっと
この上に上れるようになった。
ちょっと、トロいのだろうか??
イメージ 6
虎王は、普段ものすごく温厚なのだが
空気が読めないところがあるコだ。
そのため、いつも他の猫に怒られているのだが
今回のように、本気で怒られたことはなかった。
この猫なりに、「お友達」から我が家を守ったつもるだったのだろう。
一番、身も軽く、3月に脱走してから、
実はつい先日も風呂場の網戸を開けて
脱走し、隣家の屋根の上を歩いていたのを
見つけ、強制撤収させたばかりなので、
「テリトリー意識」がものすごく強いのかも
しれない。
その後、すべての網戸にロックをかけたのは
言うまでもない。
 
今日は、「豪雨」という表現がぴったりの日なのだが、
この雨が小雨になってやんだ時、果たしてギョロちゃんの「お友達」は
例の網戸の下にやってくるだろうか??
この「お友達」、人間の顔を見てもすぐには逃げない。
こちらの出方を伺って、静かに離れる。
かなり、賢い。
ギョロちゃんの「お友達」がやってきたら、すかざす虎王を抱きかかえ
階下に連れて行くしかないだろう・・・
あの「お友達」いったい、どこからやって来るのか??
そして、毎日長い時間、網戸越しにギョロちゃんと何を話しているのだろう?
今度はいつの訪問になるのだろう?
23 6月

迦楼羅の妻飾り

広島県内で見つけた「迦楼羅」っぽい妻飾り。
もともとはお面だったのだろうが、妻飾りとしてここにつけたのだろう。イメージ 1
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よく見ると、針金で耳の部分を
留めてあるのが見える。
 
これが果たして「迦楼羅」(かるら)の面なのか?それとも、河童の面なのかは定かではないのだが、一目見た瞬間『迦楼羅だ!』と思ったのは、事実だ。
実はこのお宅の玄関先には、壺だとか昔の糸巻き車だとか、田植えの時に昔使った農工具だとかが、たくさん置かれており、もしかしたら以前は骨董品のお店
だったのではないだろうか?と思われるようなお宅だった。
 
イメージ 3今、現在はごくごく普通のお宅で特にご商売はなさっていらっしゃらない
ようにお見受けしたのだが・・・
 
 
17 6月

第48回活動報告 修学院離宮・仙洞御所 その6

手紙の木と呼ばれる「タラヨウ」の木が植えてある門を出て、
中離宮から上離宮へと移動。
イメージ 1
 
 
この葉っぱの裏に文字をしたためて、
手紙の代わりとしたそうで、ここから『葉書き』という
言葉が生まれたそうな。
そんな説明を聞き流しながら上離宮へ。
 
上離宮という名の通り、上の方へ少し登る。
 
浴龍池と呼ばれる広い池を見下ろすように
隣雲亭という、茶室へ。
 
 
イメージ 11
この隣雲亭は一番高い位置に
あるそうで、左のような光景を
愛でるための茶室のような感じで
華美な装飾は一切なく、
かなり簡素な茶室だ。
イメージ 12
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14
簡素とはいえ、かはり離宮なので
ちょっとした釘隠しにもかなり細かい細工が施してあるのはお約束。
 
更に、軒下のいわゆる「たたき」の
部分には、漆喰に小石を3粒埋め込んだ「一二三(ひふみ)石」がある。
 
漆喰は現代人の靴の磨耗などで
劣化し、漆喰の原型をとどめては
いないのだが、埋め込まれた
一二三石はまだ健在でちょっとした
足元のアクセントのようになっていて楽しい。
説明では漆喰が全部取れてしまったと伺ったが、もしや左官で言うところの
「洗い出し工法」ではないだろうか?とも思った。
そのくらいきれいに全部、漆喰が取れてしまっている。
それか、後年、漆喰ははがれるのを見越してこのような「洗い出し風」になるのを
計算して作ったのだろうか??
 
イメージ 15イメージ 16
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
隣雲亭から今度は窮邃亭へ行く。
この窮邃亭は、この修学院離宮の
創建当時から残る唯一の建築だそうだ。
千歳橋を横目に窮邃亭へ向かうのだが、この橋の上に乗っている鳳凰が
どうも平等院を連想してしまうような錯覚に陥ってしまう・・・
修繕した金ぴかの鳳凰は、口に何かの花を咥えており結構キッチュだ。
右下の写真は昨年撮影したものだが、紅葉シーズン真っ盛りなら紅の向こうの
金の鳳凰がもっと映えるに違いないだろう。
イメージ 3
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上の写真の左に見えるのが千歳橋で
橋の向こうに見える建物が窮邃亭。
 
イメージ 4
 
後水尾上皇の宸筆の扁額があり、
建物の屋根は宝形造り。
宝形造りとは、建物の隅棟が
屋根の中央にすべて集まっており
その上に露盤を乗せたもののこと
を言うのだが、よく「お堂」などでも
見かける造りだ。
ここは、離宮なので露盤にあるのは
もちろん「菊」だ。
 
 
イメージ 5イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7
 
 
この建物も簡素なのだが、
むしろそのシンプルさが品良く
開け放った窓の向こうの景色を
借景のようにして、室内の装飾にしているのだろう。
この修学院離宮自体が比叡山を借景して造られているので、
建物を簡素にすることによって、その風景を愛でやすいようにしたのだろうか?イメージ 8
建物の外側を覆う戸板も
取り外しができるようになっていた。
イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
 
 
そして、広大な風景を眺めながら
修学院離宮の見学を終え、
2チームに分かれた今回のサークル活動は
各チームごとの解散となった。
 
真冬の夕方近くの見学でもあったので
かなり暗くなってきたこともあり、
そのため一部の写真は昨年撮影した物を使用しているのをご理解いただきたい。
15 6月

やまぐち県酪の箱

三重の関宿の某店の玄関脇にあった箱。
何故か、山口県の牛乳の箱だ。
この町は、古くからの宿場町として知られており、
観光目的ではない古くからの町並みを謳ってはいるものの
お店などの場合は、どうしてもその古さをある程度『売り』にしないといけないようで
この牛乳の箱を『飾り物』として玄関の脇にわざと置いたようだ。
最近はこのような牛乳の箱や琺瑯看板を購入し、
店舗の飾りつけに使うところがかなり多いのだが、ここもそのうちの1つだ。
それが、良いとか悪いとかではなく、ただ単にその箱に描かれている絵が
かわいかったので撮影し、記録、アップロードすることにした。
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
BELL CHAN(ベルちゃん)とわざわざ
英字で書いてある。
 
どことなく、「おかっぱ頭」の牛にも見えなくはない。
かなり薄くなっているが、「成分無調整 特選牛乳 山口県酪」と描かれている。
もともとは、昭和24年(1949年)に下関酪農協同組合としてスタート。
下関酪農なので「シモラク牛乳」としてよく知られていたのだが
昭和41年(1966年)に他組合と合併し、山口県酪農協同組合にと改称、
平成11年(1999年)に防府酪農農業協同組合と合併し現在に至る。
この下関酪農時代からベルちゃんはマスコットとして使われ続けている。
現在でも、「やまぐち県酪」のHPにもこのベルちゃんは載っている。
この木の箱の中には、薄くカットされた発砲スチロールが貼ってあり
保冷、断熱の役割をしていたのだろう。
イメージ 3
 
 
 
もちろん、現在この箱はあくまでも
『飾り』として設置されているので
この中に牛乳が配達されることは
もうないだろう。
 
山口県酪の時代は
昭和41年(1965年)から
平成11年(1999年)なのだが、
木でできていることからすると
昭和40年代後半から昭和50年代初頭くらいの箱ではないだろうか??
 
現在もこの「特選牛乳」はあり、900mlの宅配専用の牛乳になっている。
驚いたことにその宅配用の商品に限っては、かつての「シモラク」の名前が
そのまま瓶に書いてある。
『成分無調整 特選牛乳 シモラク』という商品で、もちろんベルちゃんの絵も
描いてある。
 
 
やまぐち県酪農業(株)    山口県下関市菊川町田部夢団地1番
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