munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

2010年10月

28 10月

第52活動報告 長浜 その1

5月のサークル活動は、長浜城の城下町として秀吉が作った「長浜」だった。
JR長浜駅で集合し、200mほど南に歩いたところにある「長浜鉄道スクエア」へ。
イメージ 1ここは、明治15年(1882年)に
建てられた日本に現存する最古の
駅舎で、T・R・シェルビントン氏ら
英国人技師たちの手によって設計。
施工は、稲葉弥助氏。
基礎、臥梁、開口部分は石、
煉瓦積だが、壁は無筋コンクリート。
鉄筋が入っていないのだが、
明治42年(1909年)の近江地震にも耐えて、現在に至っている。
 
現在のJR長浜駅はこの、旧長浜駅舎を真似て数年前に新しく建て直された。
2年前に当ブログの「オブジェな建物」でもアップしているので、
内容は重複するが、参照されたし。イメージ 2
 
 
窓の形、屋根、2本の煙突。
非常によく似ており
注目すべきは、現長浜駅の
「キングポストトラス」だ。(左下)
イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
実は、旧長浜駅舎にも「キングポストトラス」が
使用されているのだが、現在は2階部分が
立ち入れないこともあり、見ることはできない。
このトラスまでも、再現したのだろう。
ここまで、忠実に再現してくれると
むしろ、細部まで駅舎も見てあげないと
気の毒かもしれない。
ただの、よく似たデザインの建物ではなく
わざと改札口を出て「すぐに見えるように」
しているような気がしてならないからだ。
長浜旧駅舎の待合室などを再現した展示もおもしろく、イメージ 6
スクエア内にある「長浜鉄道文化館」や「北陸線電化記念館」も楽しめる。
この2つの建物のトラスも美しい。
 
イメージ 8
 
 
 
 
左は、長浜鉄道文化館。
木造ドームトラスをうまく使って「見せる」という演出をしている。
 
トラスと照明のコラボレーションで
美しい空間を作り出しているとも
言えるのではないだろうか?
 
 
 
 
 
この鉄道文化館では、文字通り鉄道文化の歴史に関する展示があり
大変興味深く見学できる。
そして、「北陸線電化記念館。」
実は、関西に引っ越したばかりの頃は「電化」の意味がわからなかった。
生まれた時から、すでに山手線も京浜東北線も「電車」だった。
「ディーゼル車」が理解できなかったし、知りもしなかった。
ところが、関西の田舎に引っ越してあちこち自分で遊び歩くようになって
一部の地域ではまだ「電化」されておらず、「ディーゼル車(気動車)」だと
いうことを身をもって知ることができた。
こちらの展示は、鉄道ファンが喜ぶような鉄道車両の展示がメインだ。
イメージ 9北陸線電化記念館の方のトラスも
美しく、これは「合掌トラス」だろうか?対束もあるので、クィーンポスト
トラスなのかな?とも思ったが、
合掌トラスのようにも見える。
アタシ自身、トラスなどに関して
全くの不勉強なので今後、
個人的に直接、師事して教えを
請うつもりではいるのだが・・・
 
 
鉄道スクエア内の「長浜鉄道記念館」には大正時代から使われていた木製ベンチなどもあった。
説明によると、このベンチには「動輪マーク」がついているとのことで、
この「動輪マーク」は明治42年(1909年)に国鉄の制服ボタンと帽章に使うと
いうことで考案されたらしい。
イメージ 10
 
 
ものすごく「細かいなぁ・・・」と
感心してしまうのは、
この「動輪マーク」を
この「「鉄道文化記念館」の
自動ドアにも使っているという点。
この建物の中に入るまでは
気がつかなかった。
(この建物の中に入るのも2度目
だったのだが、見落としていた。)
 
イメージ 11イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「北陸線電化記念館」の方が
鉄道車両展示がメインで、ここも楽しかった。
 
そして旧長浜駅舎の建物に戻るのだが、入り口付近に昔の待合室の
ベンチを再現した展示があったのだが、長浜駅にあった火鉢だろうか??
五徳が「ひょうたん」なので、長浜駅の物だったのではないだろうか?
イメージ 4
 
「ひょうたん」といえば、秀吉。
秀吉といえば、長浜を作った御方。
そして、火鉢には旧工部省の「工」のマークがあった。
 
この工部省の「工」マークというのは
鉄道のレールの断面図を
モチーフにして考案されたマークで
JRなどのマンホールの蓋
などにも、使われていた。
イメージ 5室内で暗いということもあってか
相変わらずのピンボケ写真だが
判別はできると思う。
 
長浜駅舎とJRのマンホールに
関しては、後ほどトラックバック
しておくので、ご一読いただければ
と思う。
 
この鉄道スクエアだけでかなり
楽しく時間を過ごし、
向かいにある慶雲館に行くのだが、それはまた次回の更新時に・・・
 
 
 
長浜駅舎の過去記事
 ↓
25 10月

猫様 in 眞鍋島 その3

猫道を離れ、島の反対側に移動中に出会った、というよりも見つけた黒猫様。イメージ 1
 
建物の影から、こちらを伺っていらっしゃった。明らかに余所者のおばちゃんズが、徘徊していたので
警戒していらっしゃったのだろうか?
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、そのすぐ近くのお宅にも2匹の
猫様がくつろいでいらっしゃったのだが、
このお宅の猫様なのか??
イメージ 6
 
 
大きな、猫のウエルカムボードも
立てかけてあったので、
猫が嫌いなお宅ではなさそうだ。
基本的にこの島には猫が多いが
あえて、猫に干渉しないというか
給餌したりもしないようなので
飼い猫とか外猫ではないような
感じもする。
 
 
イメージ 7イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
茶虎の猫様はお昼寝中で
さび猫様はどこかへ移動する途中に
このお宅を通過しただけか??
 
 
 
この後、島の反対側へ抜け、ちょっとしたハイキングのような感じで山を歩いて、
また港のある側へ戻ってきたのだが、低い山を降りると
すぐに猫の肉球の跡がいっぱいついている細い道に出た。
肉球!梅の花の足跡のその先には、お約束の猫様。
イメージ 10イメージ 11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しかも、何気に美猫様だった。
 
 
 
船着場のすぐそばには、上陸した時にも出会った猫様たちが
まだ日向ぼっこの真っ最中でくつろいでいらした。
イメージ 12イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左の写真の一番奥で毛づくろいをしている
三毛猫はお腹が大きい。
もう、明日にでも産まれるのではないかと
いった感じだったのだが、無事に産まれたのだろうか??
あれから、だいぶ経ってしまった・・・イメージ 3イメージ 4
23 10月

高所ドア

東京の京島にあった「高所ドア」。
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かつて、ベランダがあったのだろうか??
その跡がまだ、壁に残っておりよく見ると
 
イメージ 3
二階の窓の上の方から、エアコンの配管が
途中ではずれたままになっているのが、
「触手」のようでまた良い感じだ。
 
この付近には猫様も多く、
このベランダの跡と、残された「触手」、
寝ている猫、逃げる猫、丸い玄関灯、
そして、高所ドアのセットで1つの絵に
なり得る光景だと思う。
 
ベランダはなくなっているが、まだきれいに
住まっていらっしゃるようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
むにゅの路上観察・・・・その151
21 10月

眞鍋島の煙草屋さん(番外編)

眞鍋島の本浦集落にあった食料品店にあった「こばた」。
漆喰の壁に右から描かれている。
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
格子は近年になって作られたようなので
昔は、この格子の向こうにおばぁちゃんが
座っていたのだろうか??
そんな光景を思い浮かべてしまうのだが・・・・
ガラスを使ったケースは見つからなかったが、代わりに漆喰に書かれた
「こばた」が残っていた。
現在でも、ここは食料と煙草を販売しているので次に行った時には
ここで買い物をしてみようかと思う。
昭和25年(1950年)前後には、ほとんどが左から書くようになっていたので
「こばた」と右から書いてあるのは、それ以前の物ということになるだろう。
20 10月

第51回 活動報告 仏像ツアー 岩船寺・浄瑠璃寺 その3

阿弥陀如来の「印」の特徴というのは、簡単に言ってしまうと
「両手の指で輪を作る」のだそうな。
「印」にはいくつもの種類があるのだが、とにかく片手だけの印は
阿弥陀如来ではないということだった。
「印」には九つの位があり、親指と人差し指をつけるのが
上生(じょうしょう)上品(じょうぼん)なのだそうな。
基本の形が3つあり3X3=9で、印の形9種になるのだそうな。
九品仏などは、ここから来ているそうな。
 
磨崖仏を見ながら浄瑠璃寺に向かうのだが、途中、山道に柴垣もあった。
イメージ 1
風避けのために作られるものだそうで、北陸などに多いのだそうな。
 
ゆるやかながらも、アップダウンの
多い山道なのだからだろうか・・・
 
途中、いくつかの磨崖仏を
A先生の説明を受けながら
浄瑠璃寺へと向かった。
 
 
 
阿智山太夫重頼という地方豪族によって作られた「氏寺」だ。
およそ950年前の創立で、創立当時の本尊は塔の中に祀られている「薬師如来」。
800年ほど前から、阿弥陀如来が中心になったそうで、
A先生が一番、アタシたちに教えたかったことがこの浄瑠璃時にあるのだそうだ。
 
浄瑠璃寺には、九体の阿弥陀如来像があり別名、九体寺とも呼ばれている。
東で生まれ、西に没する九段(九品)の教えで、九体の像があるそうだ。
上の上→上品上生、 下の下→下品(げぼん)下生(げしょう)と、
いう風になっており、上品上生~上品中生~上品下生~中品上生~中品中生~
中品下生~下品上生~下品中生~下品下生となるそうで、
A先生曰く、大変、合理的なのだそうだ。
その九体の阿弥陀如来像があるのはここだけだ。
イメージ 2
ここには、招福の女神「吉祥天」の
像があり、本来は年末からお正月
にしか公開されなかったのだが、
明治以降になって、
春と秋にも公開されるようになった
そうで、アタシたちが訪れた
桜の季節にも公開されていた。
 
手に幸せの象徴でもある「宝珠」を
持ち、下の手には願いをかなえる
「与願」といわれる「印」。
この「与願印」は地蔵菩薩と同じだそうな。
信者は下に座って吉祥天を見上げるので、目も下から見上げた時のことを
考えて作られた像だそうだ。
 
この浄瑠璃寺には大きな池があり、この池の向こうから拝むのが「正道」。
これは宇治の平等院も同じだそうだ。
池の向こうから、つまり東から西方浄土を拝むのが正道だそうな。
 イメージ 3
本堂(西方浄土)に日が沈むのが、ちょうど彼岸の頃だそうだ。
この九体阿弥陀像が安置されている本堂が西。
真ん中には池。
東には、薬師如来のある三重塔。
 
阿弥陀の浄土は煩悩の水と火の大河を渡りきった「彼岸」にある。
彼岸の頃にこの九体阿弥陀堂に日が直接落ちるのも、
それを計算して作られたのだろうか?
 
仏が入滅して500年(1000年とも言われているそうだが)、
修行すれば救われるのが、正法。
 
それから1000年、もっとがんばれば、まぁまぁ救われるのが像法。
 
そして、それ以降は救われないのが、末法とのこと。
ちょうど、平安時代から、末法の時代になるそうだ。
末法思想は、現世で救われないので死後救われることを考えるそうな。
 
三世仏思想というのがあって、
 
過去・・・薬師如来~~生まれるまで
 
現世・・・釈迦如来~~生まれてから(釈迦如来によって「生かされる」)
 
来世・・・阿弥陀如来~~死後(阿弥陀如来があの世に迎えてくれる)
 
薬師如来も、釈迦如来も生きている間、すなわち、現世利益にあたる。
奈良時代まではこれが主流だったそうだ。
ところが、平安時代以降は、死後の阿弥陀信仰へと発展していく。
 
この阿弥陀信仰は、お百姓さんたちに好まれた。
一番下の現場で働くお百姓さんたちにとって、
この信仰は「死後、あの世に迎えられる」ことから死が怖くないということに
つながり、その後の「百姓一揆」につながったことから、
権力者たちは、阿弥陀信仰を恐れたそうだ。
 
国の幸せ → 個人の幸せ → 死んだ後の幸せ と、阿弥陀信仰によって
変化していったそうだ。
 
ちなみに「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、「帰依します、あなたを信じます」と
言う意味だそうで、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏を信じます、
阿弥陀仏に帰依しますということになるそうだ。
 
だから、南無薬師如来、南無釈迦如来というのもあるのだそうな。
 
A先生によると、この平安時代というのが日本での仏教が
大きく変わる時期だそうで、飛鳥から平安にかけての移り変わりを
アタシたちに一番教えたかったのだそうだが、覚えきれなかった。
 
 
 
そして奈良駅でA先生と別れ、駅の近くの町家に住むメンバーの家に
集団で押しかけ、強引にお茶を出させて帰路についた。
 
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