munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

2010年11月

30 11月

コクブ牛乳の箱

岡山駅のすぐ近くで見つけた。イメージ 2
当初は、森永牛乳の古い箱かな?と思ったのだが、イラストや文字の色が青い。
黄色地に青い色でメーカー名などが書かれた箱は多いのだが、
とっさにある種の勘が働き、ブロガーさんと待ち合わせをしていたが、
箱の写真を撮るためにちょっぴり
道草をくって近くまで寄ってみた。
かなり、薄いがぼんやりと
「コクブ牛乳」というのが読める。
赤ちゃんがハイハイしているイラストも・・・
イメージ 1
このコクブ牛乳、すでに廃業になって久しいのだが
「漂流乳業」さんのHPが一番詳しく調べてアップロードされていらっしゃるのでぜひとも、そちらをご一読いただければと思う。
 
仮に同じことを書いても、「漂流乳業」さん以上の調査はできない。
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
「漂流乳業」さんへは、ここにURLを貼らせていただき
丸投げ状態にはなってしまうが・・・と、いうことはすでにご了承していただいている。
 
「漂流乳業」さんの調査力の
すばらしさには敬服している。
 
 
  
 
(株)國分商店   岡山県玉野市山田445
 
 
漂流乳業さんのHP(コクブ牛乳のページ)
 
 
  ↓
 
 
 
 
 
23 11月

猫様 in 神田練塀町

東京に帰省した時に出会った猫様。
秋葉原の駅近くの、アタシが生まれ育った場所のすぐ近所だ。
某大手運送会社の事務所の前でお食事中の猫様。
イメージ 1猫好きの男性職員の方が猫用の
ドライフードを入れた専用皿を
持ってきて給餌してくださっていた。
 
この猫様もそれを認識しており、
きちんと定位置で待った上で
食事をなさっていらした。
この20年ほどで、この近辺の
夜間人口は激減し、もはや
昔から住んでいる住民の方は
ほんの一握りしかいない。
                 イメージ 2
                         
この日も、近くのブロガーさんのお宅に顔を出してから、そこで町会への挨拶用のものを購入させていただいてと思ったのだが、あいにくと
そのブロガーさんは不在だった。
(結局、関西に戻るときにそのブロガーさんのお宅へ伺い今度は町会への お世話になったお礼の品を購入することはできた。)
 
そして、裏道に入ると今度はまた別の猫様がこちらを見ていた。
イメージ 3
 
この路地には、子供の頃から
アタシのことをものすごく
かわいがってくださった父の友人が以前住んでいらっしゃった。
父の幼馴染だったのだが、
自分が生きたいように生きるために
すべての相続権を放棄して
同じ町会に住んでいたその方の
ご実家を出て、秋葉原のガードを
隔てた練塀町に住まれた。
実は、その方のご実家からいただいた猫を20年ほど飼っていたことがある。
もっとも、アタシが自分の実家を出てからは両親が飼っていたのだが・・・
そんなことを思い出して歩いていたら、この猫様に出会った。イメージ 4
 
毛のつやもよさそうで、ふっくらしているから、もしかしたらこの猫様も
あの三毛猫様同様、あの会社で
給餌してもらっているのだろうか?
車の量もかなり多い場所なのだが
こういう都会のど真ん中育ちの
猫様は案外、車の動きをよく見て
行動しているのかもしれない。
いずれにしても、車には
気をつけて生き延びて欲しい。
19 11月

第52回活動報告 長浜 その2

長浜鉄道スクエアのあとは、すぐお向かいの慶雲館へ。
ここは、「盆梅展」でよく知られている。
明治20年(1887年)に竣工した総檜造の2階建ての書院風建築だ。
イメージ 1
 
明治天皇夫妻が京都訪問の折に
長浜での鉄道乗り換えの時間の
休憩場所として浅見又蔵氏が
私財を投げ打って作ったそうな。
わずか3ヶ月の突貫工事だった。
完成は天皇ご夫妻が到着する
当日の朝だったということだ。
わずか、数時間の滞在のためだけに建てられた建物なのだが、
100年以上もここに建っている。
費用を出した浅見又蔵氏は長浜の豪商で、当時の財を成した方たち同様、
教育や福祉などに多大な貢献をなさったそうな。
小学校、銀行の設立や鉄道の敷設をなさったりしたそうだ。
この浅見又蔵氏の二代目のお方が明治天皇の行幸25周年を記念して
大正元年(1912年)に、小川冶兵衛氏作庭の庭を造営。イメージ 10
 
2階には、明治天皇御夫妻の
玉座があり、1階とは異なる
菊のご紋の釘隠しや襖の引き手が
つけられている。
イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11
 
イメージ 12イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 13イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
イメージ 4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
照明も当時のままだそうで、
梅のマークがかわいい。
これにちなんで、ここで「盆梅展」が行われているのだろうか??
 
この慶雲館でゆっくりした後、素敵な建物を横目で見ながら黒壁スクエアへ移動。
イメージ 5イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長浜タワービル。
何故かBILLになってはいるが
そこは深くは追求してはいけない。
そう、いけないのだ。このBUILDINGではなく、BILLという表記が「味」なのだ。
ここは、現在は1階に店舗は入っているだけで2階から上へは上がれない。
昭和39年(1964年)に地元の方が東京タワーを意識して作られたそうで
以前は有料展望台だった時代もあったそうだ。
こちらに関しては、朝日新聞にも掲載されているので参照していただければ
もっと詳しい取材による話が掲載されている。
 
この向かいに建つのは、旧長浜開知学校の建物。
イメージ 7
 
明治7年(1874年)築。
平成12年(2000年)修復。
塔屋付の木造3階建。
設計も施工も不明。
建築当初の建設費3700円のうち
3200円が長浜市民の寄付に
よるものだそうだ。
これは、すごいことだと思う。
当時の日本人は本当に教育と
いうものの必要性を感じていたから
一般市民たちが、お金を出し合って学校を建てていた。
そういう時代がわが国にあったということは誠に誇らしい。
お金の使い方を知っている、学校に行かなくとも、真の教養や素養を
持ち合わせていた人が多かったのだろう。
昭和12年(1937年)にこの場所に移築された際に塔屋などが撤去され
外観が大きく変貌したらしいのだが、10年前の修復作業では原型に忠実に
修復を行ったそうだ。
木造なのだが、外壁は白漆喰で仕上げてあるそうな。
 
ちょっと、写真が多くなってしまったので、続きは次回に・・・・
 
17 11月

カトリック赤穂教会

数年前から非常に気になっていた建物。
実は、幼稚園が併設されており子供たちの安全のために
門が閉められていることが多いので、なかなか見学を言い出せなかった。
保育士の方の声をかけて・・・とも思ったのだが、子供たちを預かる大事な
仕事中におばちゃんの趣味でお邪魔をしてはいけないと思い
何度か、教会に電話をかけて事前に見学許可をもらうつもりだったのだが、
タイミングが悪いのか、いつも留守電だった。
教会ならば、日曜は幼稚園も休みだしミサがあるので開放されていると思い
日曜の午後に訪問してみた。
イメージ 1明治の初めの頃の建物かと
思っていたが、実は270年前の物。
 
赤穂藩主の森伊勢守政房公が
元文元年(1736年)に建立。
 
正保2年(1645年)に浅野家初代
赤穂藩主が天満神社を建立。
 
あの忠臣蔵で有名な浅野家だ。
 
 
 
の後の「松の廊下事件」(この呼び方はふさわしくないかもしれないが、個人的にはこの書き方をしたい)で、お家断絶となりその後、天満神社は朽ち果てたそうだ。
浅野家の次に、森家が赤穂藩主となりそれは幕末まで続いた。
その森家の4代目の政房公が朽ち果てた天満神社を嘆き、
この地にあらたに天満神社を建立したそうな。
そして、昭和25年(1950年)には、カトリック赤穂教会となった。
神社からキリスト教への転身というのがすごい。
 
もともと、神社の建物なので見事な唐破風に瓦がついている。
もちろん、瓦には森家の家紋である鶴の紋。
イメージ 2イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、唐破風の下には、銅で作られたと
思われるイエス・キリスト像があった。
イメージ 8イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教会内部はすっかり現代風に改装されており
神社時代の面影はない。
両脇の棟の瓦には、「水」と書いてある瓦や
「宝珠」の瓦、そして恐らく神社紋と思われる
「三つ柏紋」の瓦があった。
イメージ 10更に、裏手に回ると森家の「船印」の
ついている瓦もあった。
船印とは字の通り、船につける印。
 
森家の船印は、十字架にそっくりの
形をしているのだが、錨に見えない
こともない。
 
イメージ 11
 
 
 
 
 
昔は、この付近一帯海だったそうで、
埋め立てをして塩田事業を行ったそうな。
その関係で、この船印が使われているの
ではないか?とのお話だったが、
アタシが思うに船=海=水。
表に「水」の瓦、裏に水にちなんだ「船印」
を使うことによって、ダブル「火事除け」なのでは
ないだろうか?
 
船は、たいていの藩は所持していただろうし・・・
船印に関しては、神戸大学付属図書館の
デジタルアーカイブ「住田文庫」に保管されている画像を参照していただければ
どのようなものかがよくおわかりになると思う。
このURLをクリックして出てきた画像の左の画が森家の船の絵だ。
   ↓
(神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ「住田文庫」)
 
(注)神戸大学付属図書館には、このブログにURLを記載させていただく話は
   してあり、当記事を引用の事後報告として図書館側にチェックして
   いただくことになっているので、後日、大学付属図書館側から
   URLの削除を求められた場合はURLを削除する可能性もあるので
   ご了承願いたい。
 
この船印は建物の正面以外の「懸魚」にも使われており、
イメージ 12
もともとキリスト教の教会として建てられたので、十字架がついているのだとばかり
思っていたが、実は全く違うもので
十字架ではなかったのだ。
 
 
この建物を見学したいと思ったのは、
遠くから見えたこの「懸魚」の十字マークを
見て明治初期の建物では?と思ったから
なのだが、明治どころではなかった。
 
そもそも、浅野家がお家断絶になった後
森家が藩主だったということすら、アタシは
認識していなかったくらいだ。
 
 
イメージ 13イメージ 14
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
建物の脇には、神社時代の名残があった。
恐らく江戸時代のものだろう。
 
 
この建物を囲む塀にも、森家の鶴の紋と天満神社だったからなのか、
梅紋が鏝絵として描かれていた。
天満神社と梅紋の関係は言うまでもないだろう。
この塀に関しては、築年代がよくわからないが近年のもの」だろう。
しかし、近年といってもキリスト教の教会になる以前なので
戦前のものではないだろうか?
大正から昭和初期によく行われた左官方法に見える。
 
イメージ 3イメージ 4
 イメージ 5イメージ 6                            
 
 
ある意味、十字架と船印が極似していた分、
どこかで「縁」というものがあったのだろう。
 
森家の菩提寺である花岳寺のすぐそばに
この教会はある。
 
13 11月

向島の煙草屋さん

向島にあった煙草屋さん。
すでに店頭での対面販売は行われていない様子。
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
恐らく、右側にある郵便局の〒マークの看板の下には、煙草のパッケージの絵か、もしくはパイプの絵が
描いてあるのではないかと
思うのだが・・・
 
ほとんどの昔の煙草屋さんの陳列ケースは、たいていケースが作られた
時代に売り出し中の煙草の絵などが描いてあることが多い。
 
いつも、その絵を手がかりに陳列ケースの製作年代などを特定していくのだが
今回は肝心の絵の部分が隠れてしまっているのでわからず・・・
 
隙間に無理矢理、コンデジのレンズを近づけて撮影しても見たのだが
全くわからない状態だった。
 
実は以前、日本たばこ産業や、塩とたばこの博物館などとのやりとりで
関西の煙草陳列ケースがどの地域で生産されていたまでは
だいたい確認できていたのだが、東京に関してはその情報はものすごく少ない。
 
専売公社からJTへなり、JTクリエィティブサービスという会社に
業務の一部を移してからは、JT内でもその資料はあまり残っていないそうだ。
もちろん、JTクリエィティブサービスとも数年前だがやりとりをしたが
東京方面に関しての資料は一切ないそうだ。
 
 
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