10月のサークル活動は、11月初旬に行われる「京都非公開文化財公開事業」などが
開催される11月初頭に合わせて後倒しにして行った。
京都の同志社大学のすぐ横、御所の向かいとでも言うのだろうか?
今出川通り面した住宅が、冷泉家だ。
白い壁のお宅で、外側から見る限りは無意識に通り過ぎてしまいそうなお宅だ。
冷泉家というのは、いわゆる「お公家さん」だ。
藤原道長の直系子孫で、上冷泉家と下泉家があるそうなのだが現在、一般的に冷泉家というと
この京都の今出川の上冷泉家を指すのだそうだ。
(確か、下冷泉家は兵庫県の方に行ってしまわれたと思うのだが・・・)
明治時代には上冷泉家は伯爵、下冷泉家は子爵として華族に列さられたそうな。
瓦解後、明治天皇は東京に移られ、それに伴い公家の東京移住命令が出されて
京都御苑内にあった公家の屋敷はすべて引越し後に取り壊されたそうだ。
この冷泉家(上冷泉家)は、今出川通りを1本挟んだ形で建っていたためにそのまま
この地に残されたそうで現在も、ここに住まわれていらっしゃる。
昭和天皇の侍従長だった入江相政氏も、この冷泉家の分家である入江家の出身だ。
以前は内部の写真撮影禁止だったのだが、今回は写真撮影OKだったのだが
撮影のための公開ではないので、あくまでも薄暗いところは薄暗いままなので
やはりアタシのコンデジではかなりボケることが多かったが、
ここはもう1回か2回くらい行って、写真ではなく説明をじっくり聞かないと
ただ、写真撮っただけ見ただけになってしまいそうな場所でもある。
現に説明はほとんど覚えていない・・
写真1~2枚目に写っている藁の束は「しゃぐま」で魔よけのために「おくどさん」と呼ばれる
台所の上の方に飾ってあるものだそうだ。
「しゃぐま」という名前でアタシは一瞬、全く別のことを連想してしまった。
実は、映画などでよく官軍が被っている帽子などに赤い毛の装飾がついているのを
ご存知の方はいらっしゃるだろうか??
しゃぐまとは、漢字で「赤熊」と書く。発音はもちろん、「しゃぐま」。
土佐が赤い毛の装飾のがついた服装で行進している絵なども残っている。
うがった見方なのだが、一瞬、京都の公家=宮家=明治維新=薩長土という式が頭に浮かんでしまった。
だが、これはアタシ個人の全くの偏見のようなもので、
官軍のあの毛の装飾は江戸城から(言葉は悪いが)強奪した物でもある。
それを自分たちの軍服につけただけのことだ。
話はそれてしまったが、ここの「しゃぐま」は官軍とは全く関係なく祇園祭りの
長刀鉾につけられている「しゃぐま」が祭礼が終わるとここに届けれ、
魔よけとして飾られるそうな。
写真3枚目は内玄関。今でいう「通用口」にあたる。
その先には式台のついた「大玄関」がある。式台の部分の写真はかなり暗いのだが・・・
(写真4枚目、5枚目)
更に奥へ進むと、「使者の間」、「中の間」、「上の間」、と続くのだが
建物前に植えられているのは「右近の橘」と対になっている「左近の梅」。
雛人形などを飾る時に、「右近の橘、左近の桜」という飾りつけになっているのだが、
古い時代には、左近は桜ではなく、左近の梅だったそうな。
この冷泉家では、左近の梅の方式を今でも伝えている。
写真7枚目、8枚目は「使者の間」。
木の引き戸には、唐子の絵が描かれており、これが隣りの「中の間」側では鶴の絵になっている。
ちょっと、まだ写真が増えてしまったので続きは次回更新時に・・・
開催される11月初頭に合わせて後倒しにして行った。
京都の同志社大学のすぐ横、御所の向かいとでも言うのだろうか?
今出川通り面した住宅が、冷泉家だ。
白い壁のお宅で、外側から見る限りは無意識に通り過ぎてしまいそうなお宅だ。
冷泉家というのは、いわゆる「お公家さん」だ。
藤原道長の直系子孫で、上冷泉家と下泉家があるそうなのだが現在、一般的に冷泉家というと
この京都の今出川の上冷泉家を指すのだそうだ。
(確か、下冷泉家は兵庫県の方に行ってしまわれたと思うのだが・・・)
明治時代には上冷泉家は伯爵、下冷泉家は子爵として華族に列さられたそうな。
瓦解後、明治天皇は東京に移られ、それに伴い公家の東京移住命令が出されて
京都御苑内にあった公家の屋敷はすべて引越し後に取り壊されたそうだ。
この冷泉家(上冷泉家)は、今出川通りを1本挟んだ形で建っていたためにそのまま
この地に残されたそうで現在も、ここに住まわれていらっしゃる。
昭和天皇の侍従長だった入江相政氏も、この冷泉家の分家である入江家の出身だ。
以前は内部の写真撮影禁止だったのだが、今回は写真撮影OKだったのだが
撮影のための公開ではないので、あくまでも薄暗いところは薄暗いままなので
やはりアタシのコンデジではかなりボケることが多かったが、
ここはもう1回か2回くらい行って、写真ではなく説明をじっくり聞かないと
ただ、写真撮っただけ見ただけになってしまいそうな場所でもある。
現に説明はほとんど覚えていない・・
写真1~2枚目に写っている藁の束は「しゃぐま」で魔よけのために「おくどさん」と呼ばれる
台所の上の方に飾ってあるものだそうだ。
「しゃぐま」という名前でアタシは一瞬、全く別のことを連想してしまった。
実は、映画などでよく官軍が被っている帽子などに赤い毛の装飾がついているのを
ご存知の方はいらっしゃるだろうか??
しゃぐまとは、漢字で「赤熊」と書く。発音はもちろん、「しゃぐま」。
土佐が赤い毛の装飾のがついた服装で行進している絵なども残っている。
うがった見方なのだが、一瞬、京都の公家=宮家=明治維新=薩長土という式が頭に浮かんでしまった。
だが、これはアタシ個人の全くの偏見のようなもので、
官軍のあの毛の装飾は江戸城から(言葉は悪いが)強奪した物でもある。
それを自分たちの軍服につけただけのことだ。
話はそれてしまったが、ここの「しゃぐま」は官軍とは全く関係なく祇園祭りの
長刀鉾につけられている「しゃぐま」が祭礼が終わるとここに届けれ、
魔よけとして飾られるそうな。
写真3枚目は内玄関。今でいう「通用口」にあたる。
その先には式台のついた「大玄関」がある。式台の部分の写真はかなり暗いのだが・・・
(写真4枚目、5枚目)
更に奥へ進むと、「使者の間」、「中の間」、「上の間」、と続くのだが
建物前に植えられているのは「右近の橘」と対になっている「左近の梅」。
雛人形などを飾る時に、「右近の橘、左近の桜」という飾りつけになっているのだが、
古い時代には、左近は桜ではなく、左近の梅だったそうな。
この冷泉家では、左近の梅の方式を今でも伝えている。
写真7枚目、8枚目は「使者の間」。
木の引き戸には、唐子の絵が描かれており、これが隣りの「中の間」側では鶴の絵になっている。
ちょっと、まだ写真が増えてしまったので続きは次回更新時に・・・
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