阿弥陀如来の「印」の特徴というのは、簡単に言ってしまうと
「両手の指で輪を作る」のだそうな。
「印」にはいくつもの種類があるのだが、とにかく片手だけの印は
阿弥陀如来ではないということだった。
「印」には九つの位があり、親指と人差し指をつけるのが
上生(じょうしょう)上品(じょうぼん)なのだそうな。
基本の形が3つあり3X3=9で、印の形9種になるのだそうな。
九品仏などは、ここから来ているそうな。
 
磨崖仏を見ながら浄瑠璃寺に向かうのだが、途中、山道に柴垣もあった。
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風避けのために作られるものだそうで、北陸などに多いのだそうな。
 
ゆるやかながらも、アップダウンの
多い山道なのだからだろうか・・・
 
途中、いくつかの磨崖仏を
A先生の説明を受けながら
浄瑠璃寺へと向かった。
 
 
 
阿智山太夫重頼という地方豪族によって作られた「氏寺」だ。
およそ950年前の創立で、創立当時の本尊は塔の中に祀られている「薬師如来」。
800年ほど前から、阿弥陀如来が中心になったそうで、
A先生が一番、アタシたちに教えたかったことがこの浄瑠璃時にあるのだそうだ。
 
浄瑠璃寺には、九体の阿弥陀如来像があり別名、九体寺とも呼ばれている。
東で生まれ、西に没する九段(九品)の教えで、九体の像があるそうだ。
上の上→上品上生、 下の下→下品(げぼん)下生(げしょう)と、
いう風になっており、上品上生~上品中生~上品下生~中品上生~中品中生~
中品下生~下品上生~下品中生~下品下生となるそうで、
A先生曰く、大変、合理的なのだそうだ。
その九体の阿弥陀如来像があるのはここだけだ。
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ここには、招福の女神「吉祥天」の
像があり、本来は年末からお正月
にしか公開されなかったのだが、
明治以降になって、
春と秋にも公開されるようになった
そうで、アタシたちが訪れた
桜の季節にも公開されていた。
 
手に幸せの象徴でもある「宝珠」を
持ち、下の手には願いをかなえる
「与願」といわれる「印」。
この「与願印」は地蔵菩薩と同じだそうな。
信者は下に座って吉祥天を見上げるので、目も下から見上げた時のことを
考えて作られた像だそうだ。
 
この浄瑠璃寺には大きな池があり、この池の向こうから拝むのが「正道」。
これは宇治の平等院も同じだそうだ。
池の向こうから、つまり東から西方浄土を拝むのが正道だそうな。
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本堂(西方浄土)に日が沈むのが、ちょうど彼岸の頃だそうだ。
この九体阿弥陀像が安置されている本堂が西。
真ん中には池。
東には、薬師如来のある三重塔。
 
阿弥陀の浄土は煩悩の水と火の大河を渡りきった「彼岸」にある。
彼岸の頃にこの九体阿弥陀堂に日が直接落ちるのも、
それを計算して作られたのだろうか?
 
仏が入滅して500年(1000年とも言われているそうだが)、
修行すれば救われるのが、正法。
 
それから1000年、もっとがんばれば、まぁまぁ救われるのが像法。
 
そして、それ以降は救われないのが、末法とのこと。
ちょうど、平安時代から、末法の時代になるそうだ。
末法思想は、現世で救われないので死後救われることを考えるそうな。
 
三世仏思想というのがあって、
 
過去・・・薬師如来~~生まれるまで
 
現世・・・釈迦如来~~生まれてから(釈迦如来によって「生かされる」)
 
来世・・・阿弥陀如来~~死後(阿弥陀如来があの世に迎えてくれる)
 
薬師如来も、釈迦如来も生きている間、すなわち、現世利益にあたる。
奈良時代まではこれが主流だったそうだ。
ところが、平安時代以降は、死後の阿弥陀信仰へと発展していく。
 
この阿弥陀信仰は、お百姓さんたちに好まれた。
一番下の現場で働くお百姓さんたちにとって、
この信仰は「死後、あの世に迎えられる」ことから死が怖くないということに
つながり、その後の「百姓一揆」につながったことから、
権力者たちは、阿弥陀信仰を恐れたそうだ。
 
国の幸せ → 個人の幸せ → 死んだ後の幸せ と、阿弥陀信仰によって
変化していったそうだ。
 
ちなみに「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、「帰依します、あなたを信じます」と
言う意味だそうで、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏を信じます、
阿弥陀仏に帰依しますということになるそうだ。
 
だから、南無薬師如来、南無釈迦如来というのもあるのだそうな。
 
A先生によると、この平安時代というのが日本での仏教が
大きく変わる時期だそうで、飛鳥から平安にかけての移り変わりを
アタシたちに一番教えたかったのだそうだが、覚えきれなかった。
 
 
 
そして奈良駅でA先生と別れ、駅の近くの町家に住むメンバーの家に
集団で押しかけ、強引にお茶を出させて帰路についた。