数年前から非常に気になっていた建物。
実は、幼稚園が併設されており子供たちの安全のために
門が閉められていることが多いので、なかなか見学を言い出せなかった。
保育士の方の声をかけて・・・とも思ったのだが、子供たちを預かる大事な
仕事中におばちゃんの趣味でお邪魔をしてはいけないと思い
何度か、教会に電話をかけて事前に見学許可をもらうつもりだったのだが、
タイミングが悪いのか、いつも留守電だった。
教会ならば、日曜は幼稚園も休みだしミサがあるので開放されていると思い
日曜の午後に訪問してみた。

思っていたが、実は270年前の物。
赤穂藩主の森伊勢守政房公が
元文元年(1736年)に建立。
正保2年(1645年)に浅野家初代
赤穂藩主が天満神社を建立。
あの忠臣蔵で有名な浅野家だ。
その後の「松の廊下事件」(この呼び方はふさわしくないかもしれないが、個人的にはこの書き方をしたい)で、お家断絶となりその後、天満神社は朽ち果てたそうだ。
浅野家の次に、森家が赤穂藩主となりそれは幕末まで続いた。
その森家の4代目の政房公が朽ち果てた天満神社を嘆き、
この地にあらたに天満神社を建立したそうな。
そして、昭和25年(1950年)には、カトリック赤穂教会となった。
神社からキリスト教への転身というのがすごい。
もともと、神社の建物なので見事な唐破風に瓦がついている。
もちろん、瓦には森家の家紋である鶴の紋。


そして、唐破風の下には、銅で作られたと
思われるイエス・キリスト像があった。


教会内部はすっかり現代風に改装されており
神社時代の面影はない。
両脇の棟の瓦には、「水」と書いてある瓦や
「宝珠」の瓦、そして恐らく神社紋と思われる
「三つ柏紋」の瓦があった。

ついている瓦もあった。
船印とは字の通り、船につける印。
森家の船印は、十字架にそっくりの
形をしているのだが、錨に見えない
こともない。

昔は、この付近一帯海だったそうで、
埋め立てをして塩田事業を行ったそうな。
その関係で、この船印が使われているの
ではないか?とのお話だったが、
アタシが思うに船=海=水。
表に「水」の瓦、裏に水にちなんだ「船印」
を使うことによって、ダブル「火事除け」なのでは
ないだろうか?
船は、たいていの藩は所持していただろうし・・・
船印に関しては、神戸大学付属図書館の
デジタルアーカイブ「住田文庫」に保管されている画像を参照していただければ
どのようなものかがよくおわかりになると思う。
このURLをクリックして出てきた画像の左の画が森家の船の絵だ。
↓
(神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ「住田文庫」)
(注)神戸大学付属図書館には、このブログにURLを記載させていただく話は
してあり、当記事を引用の事後報告として図書館側にチェックして
いただくことになっているので、後日、大学付属図書館側から
URLの削除を求められた場合はURLを削除する可能性もあるので
ご了承願いたい。
この船印は建物の正面以外の「懸魚」にも使われており、

もともとキリスト教の教会として建てられたので、十字架がついているのだとばかり
思っていたが、実は全く違うもので
十字架ではなかったのだ。
この建物を見学したいと思ったのは、
遠くから見えたこの「懸魚」の十字マークを
見て明治初期の建物では?と思ったから
なのだが、明治どころではなかった。
そもそも、浅野家がお家断絶になった後
森家が藩主だったということすら、アタシは
認識していなかったくらいだ。


建物の脇には、神社時代の名残があった。
恐らく江戸時代のものだろう。
この建物を囲む塀にも、森家の鶴の紋と天満神社だったからなのか、
梅紋が鏝絵として描かれていた。
天満神社と梅紋の関係は言うまでもないだろう。
この塀に関しては、築年代がよくわからないが近年のもの」だろう。
しかし、近年といってもキリスト教の教会になる以前なので
戦前のものではないだろうか?
大正から昭和初期によく行われた左官方法に見える。




ある意味、十字架と船印が極似していた分、
どこかで「縁」というものがあったのだろう。
森家の菩提寺である花岳寺のすぐそばに
この教会はある。
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