『生野クラブ』には、明治17年(1884年)の建築当時の瓦が、
屋内にたくさん展示されていた。
鯉や龍、亀、宝珠、鶴などの瓦もあり
菊のご紋をあしらった瓦などもあった。
宮様が泊まられたほどの建物だ。
ちょっと気になた細工があって、
床の間の「掛け軸を掛ける場所」。
うまく説明できないのだが、
今で言うところの、フックの場所。
渦巻き状の雷紋になっているのは、単なる吉祥紋だからではない。
もちろん、吉祥の雷紋でもあるのだが、掛け軸の大きさ、長さなどを調節しやすい
ように作られたデザインになっている。
埋め込まれたフックをスライドさせることができ、高さが調整できる。
かなり凝った、合理的なデザインだ。
室内の釘隠しも屋外の屋根の瓦にもあった
物とお揃いの桃になっていた。
瓦も釘隠しにも、葉っぱがあったので宝珠ではなく、桃であろう。
この生野クラブの室内に関しては
数年前にアップした過去記事を
参照していただければと思う。
そして、生野クラブを出てからこの日だけ生野銀山の入り口まで行くバスが運行
しているので、生野銀山へ移動するのだが、バスの本数が少なく
時間を短縮するためにタクシーで行くことにした。
普段は、銀山の下までしかバスが来ない。
バス停から銀山の入り口まで登らないといけないので、
生野銀谷祭りの特別運行バスはありがたいのが・・・・
生野銀山に着くと、まずは菊のご紋の入った
門柱が出迎えてくれる。
明治元年(1867年)にフランスから招聘された
ジャン・F・コァ二ェ氏が当時の工部省鉱山寮
生野支庁の正門として建築し、閉山後、
ここに移築したもの。
この門の脇には、明治4年(1869年)から
明治6年(1871年)にかけて建てられ、
昭和の終わりに解体された選鉱所建家の
煉瓦が残されている。
明治初期にこのコァ二ェ氏が作った
フランス様式の坑口が、
銀山の入り口になっている。
銀山の中は非常に涼しいため
坑口に立った時点で冷たい風が
中から流れてくるのを感じる。
銀山の中はお約束の「お人形」。
新旧のスタイルの人形が設置され、
そばに説明文があった。
もう、銀山の中に入るとメンバーたちもそれぞれバラバラに行動し
見学というよりは純粋に遊んで楽しんでいる。
温度も低くて涼しい!
女性はそれなりにストールや羽織る物を
常に携行しているので良いのだが、
男性は半袖のTシャツ1枚だと
汗をかいた体にはかなりきついと思う。
同行した男性メンバーも寒がっていた。
書き忘れたがこの銀山でとれた鉱物の
廃棄物とも言われるのがカラミ石。
そのカラミ石を生野の町では
建物の土台などに使っているから
雨などで流れ出た成分が美しい色となってまるで緑青のような色で
家の周りを彩っている。
これらの美しい色だとか、
日本最古の社宅群なども
見て回りたかったのだが
時間が足りない・・・・
生野の町と生野銀山の両方となると1日では無理だ。
とても、じっくりとは見られない。
アタシのように片田舎に住んでいれば、どこに出かけるにも最低でも1時間半の
頭でいれば良いのだが、実際、大阪から1時間半以上となると都会の人は
よほど知名度が高くないとまず敬遠するし、そう何度も同じ場所には通わない。
それだけにちょっと今回の生野はあまりにもかけ足過ぎたかもしれない。
どうしても、メンバーたちの足の便や移動時間を計算しての企画なので
なかなか播磨や但馬には企画が組めず、京阪神中心になりがちなのが
アタシのジレンマでもある。
そして、駅に着くとある自販機が目についた。
自販機の横には、同じ地方にある「天空の城」と呼ばれる
「竹田城跡」の写真があった。
ちょうど、天空の城のをしていたので、この写真を見せた
ところ、今年泊りがけで行くことになった。
言いだしっぺは、他のメンバーなので彼女に
竹田城の企画一切はまかせることにした。
彼女はアタシ同様、1点主義というか1つをじっくり、
ゆっくりのタイプであれもこれも、ということはしない。
だから、その点では安心してまかせられる。
生野の活動は銀山と町を同時に見たためにどちらも消化不良になってしまった・・
Comment
コメントする