ランチは「カヤバ珈琲」で摂った。
イメージ 1大正5年(1916年)築。
出桁造のレトロな喫茶店で有名。
数年前に経営者が亡くなられて
閉店したのだが、有志の方々により
再生、復活となり、
また開店したそうな。
 
以前のカヤバ珈琲へはよく行っていたのだが、新しくなってからは初めて。
 
 
若いスタッフが大勢で、お客さんも谷中周辺の街歩きらしき方々で大盛況。
ランチも、ワンプレートに乗ったおしゃれな食事で値段もリーズナブルだった。
こちらのお店は、ネットでもかなり頻繁にアップされているので
カヤバ珈琲のHPやその他のサイトで写真をご覧いただければと思う。
 
カヤバ珈琲HP     http://kayaba-coffee.com/
 
そして、このカヤバ珈琲のほぼお向かいにある「愛玉子」で食後のデザート。
こちらも、近年は非常に有名なお店になった。
 
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「愛玉子」。オーギョーチィと読む。
このお店も昔からある。
 
 
普通の愛玉子しか食べたことがなかったので、今回は「チークリーム」を注文。
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愛玉子にアイスクリームが乗っているだけだった・・・
まだ20代後半だろうか?
息子さんがお店にも出られており
「そういえば、以前はこちらは
ライスカレーとか中華そばとかが
メインではありませんでしたか?」と
聞くと、やはりその通りで、
近年、愛玉子のみの営業に
なったそうな。
 
あの、中華そばの味も懐かしかったのだが・・・
店内の感じは昔とちっとも変わっていない。
息子さんとしばし「あそこの中学だよね?」などという会話を交わしながら
愛玉子についてのお話を伺う。
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乾燥させた
愛玉子の実。(左)
 
中の繊維のような実を
取り出して
作る。(右)
 
イメージ 9かなり写真がボケてしまっているが、
左が取り出した実の部分。
 
なんでも、腎臓に良い食べ物だそうなのだ。
 
以前の中華そばなどがメインの時代と異なり、
現在は、レトロな外観と特徴のあるネーミングで
訪れる客層も多いのだろう。
 
息子さんの愛玉子の説明も手馴れたもので、恐らくお店に行けば
これらの実を見せてくださり、説明もしてくださると思う。
(ただし、息子さんがいらっしゃる時だけのような気がする・・・
 今まで、数十年もの間、ここで飲食をしてご主人からそのような説明を
 受けたことがない。
 もっとも、中華そばと愛玉子だとか、ライスカレーと愛玉子、
 もしくは、真夏のかき氷だとかばかりだったからだし、近くに住まう者たちは
 あまり疑問にも感じずに、昔からある台湾のデザートとしか思っていなかったので
 わざわざ聞くこともなかったからかもしれない。)
 
そして、愛玉子で休憩をした後は夕刻が近づいてきていたので
上野桜木を抜け、上野公園を突っ切って駅まで行くことにした。
この付近はどこを見ても古い家だらけだが、その数もかなり減ってきている。
細い道沿いにはこんな塀も残っていた。
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塀の下の部分には「雷文(らいもん)」。
それも「ギリシア雷文」だ。
 
 
塀が古くなり、下のこのギリシア雷文部分の一部だけを残して
上を新しく作ったのだろうか?
そして、上野公園に入り東京藝術大学の脇を通って上野山下に向かう。
東京藝術大学の柵の間から撮った、音楽部の赤レンガ1号館。イメージ 3
 
都内に現存する最古の煉瓦建築。
明治13年(1880年)築。
工部省技師、林忠恕氏設計。
平成17年(2005年)に改修。
この建物に関しては、
東京藝術大学の改修工事の
データサイトがある。
非常に素晴らしいデータサイトで
これ以上の資料はないだろうと
思われるので、ぜひ、ご一読あれ。
 
東京藝術大学 赤レンガ1号館改修工事 データサイト
 
国立博物館も、科学博物館も清水寺、東照宮、彰義隊の墓、お化け灯篭も
時間がないのでスルー。
 
その代わり、最後にこれだけはDさんに教えてさしあげなければ!
と、いう物があったので、そこだけは足を止めていただいた。
 
イメージ 4現在でも、上野公園の入り口付近で
数多く、見られる四角い石。
 
これ、寛永寺の文殊楼の礎石だ。
(場所的に文殊楼)
 
今の上野博物館の前にある
噴水があった場所に、幕末まで
寛永寺の根本中堂があった。
 
 
 
その周辺にもいろいろなお堂や山門があったのだが、江戸から明治になる際の
戊辰戦争の時に焼けてしまった。
根本中堂のあった場所には、現在改修工事中の「噴水」がある。
アタシの父親の話によると、戦時中はここに高射砲陣地があったそうだ。
今の科学博物館に終戦間際に高射第一第一師団指令部があったようだ。
 
文殊楼の礎石の話からちょっとずれてしまったが、正直な話、どの礎石が
根本中堂の礎石で、どれが文殊楼ので・・となると、わからないそうな。
 
ただ、場所がこのあたりだから・・・・そうであろうという風に
見た方が良いかも知れない。
 
この上野公園を歩く人の90%以上の人が、この四角い石が何であるかを
知らないのではないだろうか?
もしかしたら、99%やも知れぬ。
それ故に、あえてDさんに立ち止まって話しを聞いていただいた。
 
実は、小学校の夏休みの自由研究の宿題にすぐ近くにあった「神田青果市場」の
「青果市場の仕組みと流通」のようなものを課題にしていたのだが、父親に
「どうせ頭が悪いのだから流通だとか経済など、そんなことを自由研究でやっても
理解できないのだから、覚えるだけの歴史にしておけ!
聞かれても頭の悪いヤツに説明するだけ時間の無駄だ!」と強引に
「上野公園の歴史」に変更させられてしまった。
 
この礎石の話は、小学生当時、父親に教わったのだが、
当時、父親が資料として貸してくれた本にもその話は出ていた。
恐ろしく分厚く、古い本だった。
小学生のアタシでも読めたので昭和30年前後の本ではないだろうか?
文字の表記が今と同じだったからだ。
今でも実家にその本はあるのだが、かなり傷みは激しい。
いつか、その本をもらいうけたいと思っているのだが、父親が首を縦に振らない。
その本にあった「お化け榎」なども、昔は残っていたのだが20年くら前に
なくなってしまった。
 
誰かに、この四角い石の話をしておきたかっただけなのかもしれない・・・
知っているからどう、と、いうことでもないのだが・・・
 
そしてDさんとは、アメ横の摩利支天の下のあたりで別れた。