白雲橋の向こうには三賞亭。
これは、伊藤家の本宅にあったものを大正7年(1918年)に移築した、
楊輝荘最初の建物だそうだ。
煎茶茶室なので、炉は切っていない。
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後年、敷地の一部をマンションに売却したようでそのマンションの脇の細い私道を抜け、
聴松閣や座敷と呼ばれる建物群の方へと移動するのだが、その途中にかつての
「伊藤銀行」だった時代の
社屋についていた「伊藤丸」のマークの石が
落ち葉の上にまさしく安置されていた。
明治14年(1881年)に設立され、
数々の返還を重ね、昭和16年(1941年)には
東海銀行、現在の三菱東京UFJ銀行のh前身と
なった私立銀行だったそうだ。
この石の先に、「座敷」と呼ばれる建物がある。
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この建物も、移築したものだそうな。
近くにあった松坂屋のお屋敷を移築し、
隣接する土蔵や離れ、その他の建物などと
渡り廊下で繋がっていたそうだが、
一部の建物は市外に移築されたりしている。
ここに移築される以前は、川上貞奴女史が
住んでいたこともあったそうだが、
この地へ移築後は女子寮となっていたそうだ。
庭に繋がる遊歩道の踏み石は、
大島で椿油を採る際に使われた石臼の石。
現在、こちらは内部は非公開。
 
 
隣接する土蔵の扉の閂錠の下に
『昭和六年四月十二代目瀧本喜世松』?と読めるような文字が書かれていた。
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文字が消えかかっているのでよくわからないのだが・・・
錠前の職人さんの名前だろうか??
そして、この座敷、土蔵の向かい側に建つ「聴松閣」へ。
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現在は内部は非公開だが、英国調の書斎や
インド風の部屋、中国の部屋などがあり、
地階にはインド・イスラムの壁画室がある。
聴松閣のエントランスの前にボードがあり、
それに内部の写真などが貼ってあり
写真を見ながら説明を受ける。
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地階には壁画室だけでなく、舞踏室もあり
エントランスの床には、地階の明かり取りを塗りこめた跡もあった。(右上)
地下は、かなりエキゾチックな感じになっているようだ。
楊輝荘に寄宿していたインド人の画家、パルク・ハリハラン氏の作だそうな。
また、アジャンタ石窟に見立てたらしい壁画や装飾を施された全長170mの
「トンネル」も平成19年(2007年)に発見された。
この聴松閣から他の建物へとつづく渡り廊下もあったのだが、
このトンネルでもう少し離れた場所にある建物へとい続いていたらしい。
敷地内の建物も空襲で消失したものがあるそうだ。
ある方が戦争中に伊藤家を訪問した帰りに空襲にあい、
この「トンネル」の中に避難した方もいらっしゃったそうだ。
その方はこの建物が数年前に公開されるようになってから、
見学にいらしてガイドさんにその思い出話を話されたとのことだ。
トンネル内には、八角ドームなどもあったそうなのだがマンション開発のために
潰されてしまったそうだ。
まだ、この聴松閣に関しては、調査・研究が途中ということもあり
今後の修復の目処がはっきりしないそうで、そのための非公開だそうだ。
数年後には、この謎のトンネルにも入れる日が来るのだろうか?
トンネルが再度、日の目を見たのがつい5年前なのでまだ時間がかかるだろう。
また、写真が増え長文になってしまったので続きは次回の更新時に・・・