ボランティアガイドさんとともに堺の街歩きを行ったのは、かなり以前なのだが
堺はかなり広い街で、そのほんの一部分だけしか見て回れなかった。
事前の打ち合わせでサークルの趣旨を話してあったので、
幸運なことに堺一の名ガイドと呼ばれるK氏が担当してくださった。
南海電鉄の七道駅で待ち合わせ。
当日、某新聞社の記者の方も途中まで同行させてくださいとのことで、
その記者の方とご一緒に歩くことになった。
K氏のガイドでの取材が重要なのだろう。確かに素晴らしいガイドさんだった。
住吉大社から紀州に抜ける紀州街道を軸にして碁盤の目のように作られた街だ。
 
 街に入るとすぐに打ち出の小槌の鏝絵のあるお宅があった。イメージ 7
「こづちパッケージ」という会社のようで、
HPを見ると昭和46年(1971年)設立とあった。建物はそれ以前に建てられたものを使ったか?
もしくは修景を意識して作られた可能性もあるが、
恐らく昔の建物のままで改築して使用しているような感じが見てとれた。
(壁の修復時に鏝絵がつけられた気がする。)
 
その並びには、薫香処と書かれた古い看板があるイメージ 8
創業明治20年(1887年)の「薫主堂」 。
堺は戦国時代から南蛮貿易で開けた土地だったので
16世紀の終わりには香料が持ち込まれ、
薫物や線香が盛んに作られたそうで
店舗の建物も江戸時代末期のものだそうな。
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画像を小さくしているので
わからないが、
煙の中に「薫主堂」と
屋号が彫りこまれている。
薫が、香を薫ずる意味なのは言うまでもない。
日本で最初に線香を作ったのは堺だったそうな。
こちらのお店の建物の写真などは、HPにあるのでご参照あれ。
 
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左は鉄砲鍛冶屋敷。
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江戸時代初期の頃の建物だが、
現在も居住されていらっしゃるので内部非公開。
 
 
 
鍛冶屋敷の向かいには「堺鉄砲館」
館長さんから火縄銃や堺の鉄砲の歴史などの説明を聞く。
イメージ 12イメージ 1
種子島に鉄砲が伝来してすぐに堺では
鉄砲作りが始まっていたそうな。
なんでも、堺の商人が
種子島で学んで来て
それを産業へと発展
させたそうだ。
 
そのために、鍛冶が
盛んになり、その後の
堺の町が発展する
基盤にもなったそうな。
 
 
後年になり、鉄砲は不要になる頃にフランシスコ・ザビエルが
日本に持ち込んだ「煙草」を刻むための「刻み包丁」を作る方へと転向し、
また堺は独自の発展をしたそうだ。
更に明治になり、紙巻煙草の時代が訪れると今度は料理用の包丁へ変還する。
恐るべし柔軟性だ。
江戸時代には、幕府から「堺極」という公認のブランドまで認可されていたそうだ。
今でも、堺の包丁が有名なのは、たんに昔から金物を扱い店が多いという
単純な理由ではなかった。
そして次に案内されたのが、料理包丁でも有名な「水野鍛錬所」。
こちらは、特にふぐ料理用の包丁で有名だ。
そのせいか、お宅の袖壁には、ふぐと包丁の鏝絵が描いてあった。
 
イメージ 2イメージ 3もちろん、瓦にも名前が
きっちりと入っている
こちらの二代目は
法隆寺の昭和大修理の
際に小鍛冶として五重塔の
九輪の魔よけの鎌を
作られたそうな。
九輪とは、塔のてっぺんに
ついているもののことだ。
 
 
 
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店内でその当時の鎌のレプリカを見せていただいた。
様々な祈りや想いをこめた文字が刻まれ
裏には昭和27年・・・うんぬんと二代目のお名前が。
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ふぐの包丁技術は
このお店が開発し、
日本全国にその技術を
広められたとのこと。
普通の料理用の包丁も
もちろん販売されていらっしゃるが、包丁の柄の部分を
固定する輪が水牛で
15000円前後。
刃も上質だし、むしろ安い。
 
その後、作業場と特別に公開前だった2階の見学をさせていただく。
作業場でも写真撮影させていただけたのだが、神聖な鍛冶の場なので
作業過程や作業所内の写真は水野鍛錬所さんのHPで見られたし。
2階は大掛かりな改修工事を行い、            
かなりモダーンな雰囲気を醸し出している。イメージ 6
箱階段をあがり、ツシ2階に上ると、
虫籠窓にもきれいに障子が置かれ、
琉球畳を市松に配し、透かし の欄間を飾っている。太くて大きい梁も写真には写っていないが見事だ。
左手前に写っている机は住吉大社からいただいた木でできているそうな。
机の裏側には、住吉大社の焼印があった。
 
5月の堺各地の公開イベントの時などに開けるようなお話をされていらしゃったが、それ以外でも公開されていらっしゃるんだろうか??
 
 
 
 
仔細その他は水野鍛錬所のHPへ。
 
水野鍛錬所
 
 
 
また写真も増えtきたので続きは次回に・・・・