第11番イメージ 1
電車は三橋のたもとより   
行く手は昔の御成道
万世橋をうちわたり 
内神田へと入りぬれば 
 
 
 
かつて上野広小路の交差点付近に
三橋という橋があった。
昭和初年に不忍池から流れる忍川が暗渠となり橋も消えたと、
旧町名由来案内に書かれている。
右上の写真の向かって左が上野松坂屋で、真ん中の道路は中央通り。
この道が「昔の御成道」にあたる。
「御成道」と交差している道が不忍通りだ。
写真は上野公園を背にして撮ったものだが、
上野公園寄りには、この「三橋」にちなんだ同じ名前の甘味処があり、
あんみつが美味しいので有名だ。
 
この「御成道」をまっすぐ進むと「外神田」。
アタシの生まれ育った場所でもある。
御成道には、明治9年(1876年)に「外神田の大時計」というのがあった。
明治39年(1906年)に店主が没した後、旧川崎銀行へ売却され
大正5年(1913年)には同行の指示で取り壊されたそうな。
 
東京市電がこの大時計の前を走っていた時代があった。
旧川崎銀行はその後の三菱銀行だ。
市電が開通して数年後、この大時計の近くに「伊勢丹」が創業している。
震災後、人の流れが郊外(新宿)に向かっているため移転したそうな。
 
御成道は、江戸城の将軍が上野に参詣するときに通った道。イメージ 2
この通り沿いには家内工業的な職人が
多く住んでいたそうだが、
大正6年(1914年)の第一次世界大戦後に自転車問屋の町になり、
全国の自転車の7割を生産していたが、
戦時中の鉄鋼統制や空襲などで
台東区などに移転してまた別の町へとなる。
 
上の写真は現在の「アキバ」だ。
御成道の万世橋の手前には電気街「アキバ」がある。
 
万世橋を渡った須田町、小川町、駿河台などの一部が空襲で焼け残り、
そこがヤミ屋の倉庫場所となっていたそうで、
神保町方面までラヂオの組み立て部品などのヤミ市というか、
電気卸部品露天商がかなり広がっていた。
昭和26年(1951年)に進駐軍の命令で露天商155~180軒が
秋葉原のガード下に収容されるも同然の形で集められる。
これが、電気街の始まりだった・・・
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電気街から万世橋をうちわたるべく歩いていくと、万世橋の親柱付近のコーンも
アキバ仕様だった。
 
 
万世橋は千代田区に
あるのだが、
千代万世すなわち、
「ちよよろずよ」に
繋がるのだそうだ。
江戸城(千代田城)に続く御成道にかかる橋だ。
 
この「万世橋」=神田川が外神田と内神田の境目になっている。
もちろん、千代田のお城に近い方が内神田になるのは言うまでもない。
 
そして、12番の歌詞にそって空襲から免れた地域が多い内神田へと歩く。