大阪の南河内にある富田林。 寺内町としても有名な場所だ。
ボランティアのガイドさんを頼んでの町歩きだった。
この町については、富田林観光協会のサイトがあるので詳しくはそちらを
ご覧いただければと思う。(http://tondabayashi-navi.com/miru.html)
最初に「じないまち交流館」でガイドさんの説明を受けてからの町歩き。
こちらの建物はここでは比較的新しいと思う。
江戸時代の建物が多いなか、
これは銅版を使っての建物なので
大正時代かその頃に2階の外壁を
リフォームしたのではないだろうか??
などと勝手に想像しながら歩く。
この地は1500年代の半ばに戦乱を避けるため、
京都の興正寺が4つの村から2名づつ選び、寺内町を作ったのだそうな。
町中には背割りの水路(排水)が残っており、環濠という言葉をあてはめると
以前訪れた奈良の今井町を思い浮かべてしまった。
戦乱時に向こうからすべて見渡せないように、道の交差を微妙にずらして作った
「当て曲げの辻」という風にここの道は作られている。
この「当て曲げの辻」というのは、この富田林だけに限ったことでなく、
現在でもよく探すと見つけられると思う。
ここような重要伝統的建造物群保存地区だけでなく、
普通に現代的なビルの建ち並ぶ、少しもレトロ感にあふれてはいない町でも
まだ残っているので、それらを探して歩くのも愉しいだろう。
とあるお宅の門。
扉の引き手の
「呼び出しカン」の
飾りが秀逸だ。
カンを囲む松が
美しい。
そしてそのすぐ近くには安政元年(1854年)に建てられた葛原家の分家の
三階建ての倉とその向かいには本家の建物がある。
大きな忍び返しがあるので、
当時からかなりの商家だったのだろう。
右の画像は、奥谷家住宅。 文政9年(1826年)築だそうな。
古い町並みには必ず見受けられるお約束の虫籠窓や
右の奥谷家住宅に見られるような煙出し窓やあげ店、袖壁なども
作られた年代ごとにデザインが違うのだが、ほとんどが非公開でもあり、
現在も人が住んでおられるようなので個人宅の写真や説明は割愛させていただく。
上に貼り付けた観光協会のHPからリンク先へ飛んだり、ネットで検索すれば
富田林の寺内町の画像や説明が書かれたサイトがたくさんあるだろうから
それらをご参照いただければと思う。
そして、寺内町の中核寺院である興正寺別院。
もともとは伏見城の門の一つを興正寺に
移築したもので
更にそれをこの別院に
移築した城門だそうだ。
鼓楼が左の画像に見えるが、かなりの逆光で
城門が真っ暗、鼓楼が
真っ白になってしまい、
見やすく加工したのだが
画質が汚くなった・・・
右画像は、この山門の上にあった飾り瓦なのだが、これも逆光で真っ黒。
唯一、加工して見られるようになったのが右上の画像のみ。
反対側に対になっている瓦があるのだが、加工しても真っ暗なのでアップできない。
本堂には見事な襖絵が左右にある。
真ん中のご仏像が安置してある場所は不敬にあたると思い、
わざと撮影せずに襖絵と欄間だけを撮影することにした。
向かって左には「梅と竹」、真ん中の本堂を挟んで右には「松」の襖絵。
狩野寿石秀信絵師の手によるもの。
欄間には牡丹。
その上の蟇股(かえるまた)部分には中国の故事「二十四孝」にちなんだ彫り物。
絵の具が傷むのでフラッシュを使わずに
撮影したためにまともな写真がないが
これも他のサイトで拡大写真が見られる。
ほとんどの寺院は本堂の写真撮影を嫌がるのだが、こちらは撮影OK。
フラッシュ使用の規制がなかったように思う。
もし、実際に足を運ばれて見学される際は規制されてはいないが、
絵の具が傷むのでフラッシュ使用の撮影はお控えいただければ思う。
古いコンパクトデジカメでもこの程度の撮影はできるので、
ある程度のカメラであればフラッシュなしでも充分に撮影可能なので
絵の具の保護のためにもお願いしたい。
そして、興正寺別院を出て公開されている旧杉山家住宅へ。
延享4年(1747年)頃には現在の建物になっていたと考えられている旧杉山家。
格子内側は三段階に
別れて閉める
ことができたようだ。
明治時代後半に活躍された歌人、石上露子さんのご実家だそうだ。
露子さんが使われたかもしれない??洋風の階段も素敵だ。
ドアノブの細工もどっしりとしている。
床の間の壁には襖と対になっている
水墨画が描かれており、
薄っすらと色づくたれ壁(落とし掛けと長押の上の部分の壁のこと)との対比が美しい。
また大床の間と呼ばれる部屋にも狩野散人杏山が文化、文政の時代に描いた
松の絵の障壁画も同様のたれ壁に映えて美しい。
元文2年
(1737年)に
作られた
薩摩杉で作られた欄間。
菊が彫ってあ
る。
洋風階段の右横にある床の間の画像だが、
実はこの床の間、「床刺し」になっているのだ。
床の間に対して、天井の棹が平行なのが通常なのに
これは垂直。
京都の重森三玲氏の庭園でやはり床刺しの床の間を見た。
年代的に考えても、江戸時代にわざわざ不吉とされる
床刺しは作らないはずなので、必ず「厄除け」のような
何かが隠されているはずなのだが・・・・
襖の引き手の亀甲模様がそれなのか??
否、これはただの吉祥紋であって災いは払えない。
床の間の天井に何か細工があったのだろうか??
それとも、この花頭窓風の「狆潜り」がそうなのだろうか??
他の部屋の床の間の狆潜りもとても独創的だ。
聚楽壁の優しい赤い色合いが落ち着く。
かなり長い時間
旧杉山家住宅に
いたのだが、
ここを後にして
歩くことにした。
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