第5番
いつしか上野広小路
さて公園に見るものは
西郷翁の銅像よ
東照宮のみたまやよ
上野広小路の交差点。見えているのは、上野松坂屋の建物だ。
この付近にかつて、「三橋」という橋が架かっていたそうな。
広小路を背にして上野公園に行く。
上野公園の袴腰の階段を上り西郷さんの銅像へ。
この袴腰の階段も明治9年(1876年)に作られてるので
市電よいも古いということになる。
西郷さんの銅像の裏には彰義隊の墓と
上野松竹劇場御入場口がまだ残っている。
これらに関しては過去記事を参照していただきたい。
上野公園袴腰の石柱(2007年)
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彰義隊の墓(2007年)
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上野松竹劇場御入場口(2007年)
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現在は、上野山下の「上野百貨店」「上野松竹百貨店」は建物解体の予定に
なっている。(上野松竹劇場御入場口の記事にありし日の建物の写真はある。)
すり鉢山古墳の横を通り、東照宮へと歩く。
まるで、すり鉢を伏せたような形なので
する鉢山古墳だそうな。
この階段を上がりきってもベンチがあるのみ。
実家の災害時避難場所がこのすり鉢山だった。
区で指定されている避難場所は皇居なのだが、
上野公園に逃げる方が近いので、その場合は
はぐれたらこのすり鉢山古墳の上で、
皇居だったら二の丸で落ち合うことになっていた。
東照宮は修復工事中のため、絵が描いてある幕が張ってあった。
ここは、石燈篭が美しい。
昔、緒方拳さんの「鬼畜」という映画で緒方さんが子供を連れて
この石燈篭のところで、その子供に毒の入ったパンを
食べさせようとするシーンに確か、この場所が選ばれていたと記憶している。
東照宮は金色堂と牡丹園でも知られている。
金色堂の周辺には、以前は結構シマヘビがいたのだがまだいるのだろうか?
以前、「蛇に注意」の立て看板が敷地内にあったが・・・
この石燈篭の向こうに五重塔があるのだが、上野動物園の敷地内にあるので
上部のみ木々の間からみえるだけだ。
冬場なら葉も落ちてよく見えるだろう。
東照宮の公式HPがあるので、詳しい説明はこちらで
↓
東照宮から少しだけ離れたところに柵で囲まれた
ひときわ大きな石燈篭がある。
「おばけ燈篭」と呼ばれるそれは、
寛永8年(1631年)の東照宮創建当初に奉献され、
昔は寄進した佐久間勝之氏の名をとって
「佐久間の大石燈篭」と呼ばれていたそうだが、
「お化け燈篭」と呼ばれることの方が多いようだ。
手元にある昭和7年(1932年)の文献には
すえに「お化け燈篭」と呼ばれているという記載もある。
これと同様のものを勝之氏は京都の南禅寺と尾張の熱田神宮に寄進しており、
この石燈篭は、京都の白川から石を切り出して作ったそうな。
上野動物園の旧正門。
左上は現在。右上は昭和6年(1931年)以前に撮影されたと思われるものだ。
アタシが所有する古書に載っている写真で、著作権は切れている。
これを見比べると、門の左右の建物の屋根と門柱の上の照明が現在はない。
更に場所も移動しており、現在の正門の東側にある。
この上野動物園というのは、もともとは東照宮の別当として藤堂高虎が建立した
「寒松院」という寺があったのだが、戊辰戦争で彰義隊の本営となり
その後消失したため、明治15年(1882年)に上野動物園が出来、また、
動物園から東照宮へと行く道が新に作られたとのことだ。
実は、ブログでお付き合いのある新掘さん(http://blogs.yahoo.co.jp/pa142)の
昨年の記事にも古写真の絵葉書の記事があり、
そちらの写真の方がはるかに鮮明なので、新掘さんの方の写真を
ご覧いただければと思う。
尚、その絵葉書は昭和7年(1931年)の主婦の友」の付録の絵葉書集の1葉で
そちらの説明文には藤堂高虎の屋敷跡が上野動物園となっているようだが、
もともと藤堂家の下屋敷が寛永時建立のために移転し、
その跡地に寒松院ができたので、屋敷跡も寒松院跡もどちらも正しい。
ちなみにこの前付近は日長上人にちなんだ「日長が原」と呼ばれ、
その後不思議な伝説のある大きな杉が二本あったので
「二本杉原」とも呼ばれるようになったが今では、知る人も少ないだろう。
(もちろん、新掘さんはご存知だ。)
新掘さんの記事
↓
明治44年(1911年)に新家孝正氏が設計した動物園の旧正門は、
その後、門の横に切符売り場や門番詰所などが増設されている。
上野動物園は5番には登場しないのだが、東照宮のことを書くにあたり
切り離せないものがあったために旧正門について書いておいた。