munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

2013年06月

29 6月

蒸発物件

イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田原町の交差点にあった蒸発物件。
かなり以前から「蒸発物件」となっていた。
地下鉄のホームにも同じような看板があるのだが、そちらは蒸発してはいない。
「蒸発」してしまった仏様は、看板に書かれているように
『かたちを求めて』旅の出られたのかもしれない。
このお店のHPに完全版??の看板が載っている。
 
三善堂    →  http://www.3010shop.com/
 
 
 
 
 
むにゅの路上観察・・・・・その172
 
24 6月

猫様 on 家老門

 
イメージ 1イメージ 2本龍野の家老門の上で
授乳中だった猫様。
左に子猫。
右に母猫は子猫に
乳乳中だった。
アタシたちに気づき、
左の子猫は母猫のそばに移動した。
 
 
 
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イメージ 5多分、子猫は3匹??
こちらを見返す母猫の目つきは鋭い。
わけのわからない人間たちから子猫を
守らないといけないので当たり前だ。
 
写真だけ撮らせていただいて、
早々にこの場を離れるとこにした。
ここなら雨にも濡れないし安全だ。
21 6月

第68回活動報告 奈良女子大学記念館 その1

イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奈良女子大学のすぐ近くに残る「旧北魚屋町交番所」の建物。
現在は、「奈良県警鍋屋連絡所」というそうな。
昭和3年(1928年)築らしいのが、設計、施工ともに仔細不明。
6年前にこのブログでアップしたことがあるので
そちらをご覧いただければと思う。
 
 
平成24年(2012年)には、「旧鍋屋交番きたまち案内所」として
きれいにお色直しをされて再利用されている。
そちらのHPによると、明治41(1908年)にこの場所から50mほど
離れたところに出来た「鍋屋巡査派出所」が昭和3年(1928年)になってから
現在の場所に移転してきたそうだ。
 
6年前に書いた「大正9年らしい」というのは間違いで
昭和3年(1928年)築というのが正しいのかもしれない。
この建物であればわざわざ移築することはないだろうから、
新しく建てたと考えたほうが自然かもしれない。
 
詳しくは下記HPをご参照あれ。
 
奈良きたまち  歴史のモザイク HP http://www.kitamachi.info/nabekatsu/renrakujo.html
 
イメージ 7
 
旧交番所のすぐそばに
奈良女子大学がある。
毎年春と秋にこの大学の
記念館(旧本館)が
一般公開されるので
それに合わせての訪問だ。
 
 
左の写真は正門。
奥に見えるのが記念館。
 
イメージ 8正門を入ってすぐに守衛室。
この記念館(旧本館)、正門、守衛室が
重要文化財に指定されているそうな。
 
記念館(旧本館)は、
明治42年(1909年)に竣工。
設計、施工は、文部省建築課、
京都帝国大学の建築部長である
山本冶兵衛氏が中心になったそうだ。
 
イメージ 9
 
左の写真は、奉安殿。
昭和9年(1934年)に寄贈されたもので、
戦前は御真影や教育勅語などを納める建物だそうで
戦後GHQにより、国内各地の奉安殿が解体された中、
研究用のショウジョウバエ飼育施設として
使う許可を得て解体を逃れたということが
説明書きの看板には書いてあった。
 
そして、旧本館。
現在は記念館になっている。
平成6年(1994年)に改修工事が施されたそうだ。
 
イメージ 10
 
旧本館に関しては、
画像の容量が限界に近い上に
詳しい説明、美しい写真も豊富なので大学側のHPを是非ご覧いただきたい。
 
 
奈良女子大学記念館概要
 
イメージ 3イメージ 4
2階の窓の外には
鐘が下がっていた。
 
授業開始の鐘なのだろう。
 
そういえば、以前このサークルの
仏像ツアーなどでお世話になった
A先生の言葉が思い出される。
 
 
 
 
「奈良時代まではお寺は学校だった。
だから檀家制度もなく、僧侶は学生(がくしょう)。
                そして、鐘楼の鐘はチャイムの役割りを果たしていた。」
 
まさしく、そのチャイムの鐘なのだろう。
イメージ 5 イメージ 6   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旧本館(記念館)のすぐそばに建つ、新しい校舎も色彩を合わせて
建てられたのだろう。
ちょうど文化祭の時で、そんなにじっくりではないが見て廻らせていただき、
屋台のお好み焼きを食べ、フェアトレード研究を兼ねたカフェで珈琲を飲み
奈良女子大学を後にした。
17 6月

鳥越祭りに帰省して・・・

先月の三社祭りに続いて6月7日、8日と、鳥越祭りに参加すべく帰省した。
7日の土曜日の朝、またしても祭り用の装束を着用し、
その上にショッキングピンクのレインコートを羽織り、
岡山空港から飛行機で羽田へと向かう。
到着後、友人と会う約束があったのですぐに横浜へ。
3時間ほど、地下足袋にレインコート姿のまま友人と過ごしたあと
秋葉原へ移動し、そこから歩いて鳥越方面へと歩く。
夕方の6時から神輿が発進する予定なので、
あわてて町内への挨拶回りをすませ、友人たちと合流し神酒所に向かう。
神輿を担ぐタイミングをはかっていると、肩を叩かれた。
振り返ると、いつも三社祭り、鳥越祭りでお会いするブログ仲間のH氏。
生まれ育ったのが、隣町のような場所なので話も早い。
「ま、勝手にやってるから!」と、お互い無駄な気を遣うことなく
少し話しをし、H氏は他の町会の神輿なども見るべく別れた。
次にH氏とお会いするのは、来年の三社祭りだろう・・・
 
町内神輿を担ぎ終わった時に肩を叩いてきたのは、
いつも三社祭りや鳥越祭り、町歩き撮影会などで一緒に遊ぶA女史。
三社祭りの時同様にブログ仲間のB氏、C氏と4人で呑む約束だったので
土曜の晩の祭りが終了したあとにA女史と居酒屋へ向かい恒例の飲み会。
この日は12時半くらいまでダラダラと呑んでいた。
 
翌朝6時半くらいから神社の宮出しを見学するために1人で神社へ。
見学後、すぐ千貫神輿と呼ばれる本社神輿を担ぐための
半纏の配布が始まるのですぐに町会に戻る。
戻る途中で、地元の友人と遭遇。
そして、またA女史と合流し千貫神輿の渡御の時間まで神輿仲間と
喫茶店で時間を潰す。
イメージ 1
無事に本社神輿の渡御も終え、
今度はうちの旦那と合流。
 
すぐ近くで千貫神輿の渡御を見ていた
ようで、左の写真も旦那が撮影した。
 
お祭りの時のアタシは忙しい。
だから、旦那のことは町会の知人に
頼むことにして、アタシは自分の
友人たちと神輿を担ぐことに専念。
 
千貫の本社神輿の渡御のあとは町会神輿。
ここでA女史とは別れる。
昼食休憩の合間に昔のブログ仲間の実家の飲食店に行くと、
毎年その店で顔を合わす人たちと遭遇。
そのうちの1人はブロガーさんではないのだが、
一部のヤフーブロガーさんたちの間でよく利用するお店の方。
ヤフーブログ以外のところで、その方とも繋がっていた。
たまたま、アタシの小学校の先輩も同席していらっしゃり、
ブログ仲間のD氏の中学校の同級生のということがわかった。
正直、ブログとは関係のないところでブログ仲間と繋がっていることが多い。
 
午後からは、午前中仕事で来られなかった別の仲間の
半纏とカメラを持たせて、アタシは神輿を担ぐ。イメージ 2
 
生まれて初めて半纏なるものを
着用させられた旦那は嬉々として
カメラを手に神輿に接近して
写真を撮りまくっていたのだが、
あとでチェックして見ると
アタシの写真などはほとんどなく、
いったいどこの町会のお神輿を
撮ったのだか??誰を撮ったのか?
何を撮ったのだかわからない写真
ばかりだったが、洋服の上に半纏を羽織っただけで傍観者から、
参加者になった気分でものすごく楽しかったとのことだった。
 
町会での神輿が終了したあと、友人たちと旦那とかき氷を飲み、
それからファミレスへ行く。
 
そこでA女史から電話。
風祭先生(http://blogs.yahoo.co.jp/kirigakiri)とkekeko女史と
一緒に歩いて30分ほどの距離のファミレスにいるというが、
少し離れているので、電話で風祭先生とkekekoさんにご挨拶だけした。
祭礼中のタクシー移動は通行止めなども多いので歩く方が早いのだが、
人も多いので30分はかかるので仕方ない。
 
その後、アタシたちの入ったファミレスでまたA女史と合流し
本社神輿の宮入の時刻まで話しこみ、
宮入を見学するアタシの友人の同行を押し付け、帰宅することにした。
 
旦那は出張先のタコ部屋へ行くので、東京駅まで荷物を持ってもらう。
そして、またあの装束の上にショッキングピンクのレインコートを羽織り、
最終の新幹線に乗り込んだ。
 
今年の鳥越祭りは例年以上に楽しかった。
新しい友人たちとの出会いもあったし、それ以上にうちの旦那が
洋服の上に祭り半纏を着用したことで
今までになかった感覚でお祭りに参加できたことが嬉しい。
とても、清々しくて楽しい気分だったそうな。
 
アタシは以前、D氏と呑んだ時にD氏が話してくれた言葉を思い出した。
 
「お神輿の渡御っていうのは、いわば、神様の家庭訪問みたいなもんだ。」
 
まさにその通りなのだろう、だから、神輿について歩いたんだから
とても良い気分なのは当たり前なのだろう。
 
いつものA女史、B氏、C氏以外の方々とは
「来年の三社で会おう!」が別れ際の言葉だったのは言うまでもない。
(多分、このお三方とは祭り以外でも会うだろうから・・・)
 
自分が参加する祭りは来年までお預け。
20年くらい前から、思うところがあって
神田祭り、三社祭り、鳥越祭りしか参加しないことにしている。
それ以外は見学するだけ。
秋は、播州のお祭りを見学して歩くつもりでいる。
 
来年までが長いけれど、来年は昨年までのようにもう少しゆっくりと
滞在したいのだが、時間をうまく使いこなせるようになるだろうか??
帰省前にブログ仲間の記事で、幸運のクローバーの写真などを
拝見させていただいたおかげで今年の鳥越祭りも楽しいことばかりだった。
 
それもそのはず、神様にくっついて町内の家庭訪問をして回ったのだから。
 
そもそも、女が神輿を担いで回ること自体、とんでもないことなのだが
アタシは女としても人間としても不完全な上にどこかおかしいので・・・
ということで、ご勘弁していただければと思っている。
6 6月

東京市電唱歌を歩く~第11番

第11番イメージ 1
電車は三橋のたもとより   
行く手は昔の御成道
万世橋をうちわたり 
内神田へと入りぬれば 
 
 
 
かつて上野広小路の交差点付近に
三橋という橋があった。
昭和初年に不忍池から流れる忍川が暗渠となり橋も消えたと、
旧町名由来案内に書かれている。
右上の写真の向かって左が上野松坂屋で、真ん中の道路は中央通り。
この道が「昔の御成道」にあたる。
「御成道」と交差している道が不忍通りだ。
写真は上野公園を背にして撮ったものだが、
上野公園寄りには、この「三橋」にちなんだ同じ名前の甘味処があり、
あんみつが美味しいので有名だ。
 
この「御成道」をまっすぐ進むと「外神田」。
アタシの生まれ育った場所でもある。
御成道には、明治9年(1876年)に「外神田の大時計」というのがあった。
明治39年(1906年)に店主が没した後、旧川崎銀行へ売却され
大正5年(1913年)には同行の指示で取り壊されたそうな。
 
東京市電がこの大時計の前を走っていた時代があった。
旧川崎銀行はその後の三菱銀行だ。
市電が開通して数年後、この大時計の近くに「伊勢丹」が創業している。
震災後、人の流れが郊外(新宿)に向かっているため移転したそうな。
 
御成道は、江戸城の将軍が上野に参詣するときに通った道。イメージ 2
この通り沿いには家内工業的な職人が
多く住んでいたそうだが、
大正6年(1914年)の第一次世界大戦後に自転車問屋の町になり、
全国の自転車の7割を生産していたが、
戦時中の鉄鋼統制や空襲などで
台東区などに移転してまた別の町へとなる。
 
上の写真は現在の「アキバ」だ。
御成道の万世橋の手前には電気街「アキバ」がある。
 
万世橋を渡った須田町、小川町、駿河台などの一部が空襲で焼け残り、
そこがヤミ屋の倉庫場所となっていたそうで、
神保町方面までラヂオの組み立て部品などのヤミ市というか、
電気卸部品露天商がかなり広がっていた。
昭和26年(1951年)に進駐軍の命令で露天商155~180軒が
秋葉原のガード下に収容されるも同然の形で集められる。
これが、電気街の始まりだった・・・
イメージ 3
イメージ 4
電気街から万世橋をうちわたるべく歩いていくと、万世橋の親柱付近のコーンも
アキバ仕様だった。
 
 
万世橋は千代田区に
あるのだが、
千代万世すなわち、
「ちよよろずよ」に
繋がるのだそうだ。
江戸城(千代田城)に続く御成道にかかる橋だ。
 
この「万世橋」=神田川が外神田と内神田の境目になっている。
もちろん、千代田のお城に近い方が内神田になるのは言うまでもない。
 
そして、12番の歌詞にそって空襲から免れた地域が多い内神田へと歩く。
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