munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

東京市電唱歌を歩く

23 4月

東京市電唱歌を歩く~第15番、第16番

第15番
銀行 会社 商館の ならべる大廈 高楼は 
いずれも石造 煉瓦造 目を驚かすばかりなり

第16番
新橋渡りて 左には 同じ名のある ステーション
線路は同じ大通り 芝の町々走り行く

15番の歌詞の如く 目を驚かさんばかりの美しいビルディング。
ただ、石造や煉瓦造ではなく、すべてRC造だ。
この数年でどんどん美しいビルディングが増えていくのが銀座だ。
東京市電唱歌が作られた時代の建物は残ってはいないが、
電車通りと呼ばれたメイン通りだけでなく、横の通りにも大廈、高楼が並んでいる。

イメージ 1ブルガリ銀座タワー
清水建設の設計 平成19年(2007年)築
その奥に見えるのがルイヴィトン
青木淳建築計画事務所が
平成16年(2004年)に外装設計
外装のパネルが非常に凝っていて
夜になると別の顔を醸し出す仕掛けに
なっている。

イメージ 2ご存知、銀座ライオンの建物。
昭和9年(1934年)築。
菅原栄蔵氏の設計。施工は竹中工務店。
昭和53年(1978年)に大規模な改修工事をしている。
イメージ 3最上階の外壁に
凝った装飾が見える。
この設計者の方は
よくF・ライト氏の作風に
似ているとか評されるが
確かに似ている。

イメージ 4
確かに旧甲子園ホテルを彷彿とさせるモチーフ。
よく見ると、日本家屋の屋根も見える。
屋上の一角に神社があるのだろうか?
昔はよく、建物の屋上に神社が祀ってあった。
今でも社員の方々、もしくは役員の方々が
お参りされるのだろうか??

イメージ 5そしてH&M GINZA(手前) と、ヤマハホール。
H&Mという外資系高級カジュアル洋品店とでもいうか・・・
ここには以前、ガスホールがあった。
ちょっとしたコンサートなどに使われ、
アタシもコンサートの鑑賞で何回か来たことがあったが、
平成20年(2008年)に鹿島・清水建設が共同で
設計、施工を手がけて生まれ変わった。
昔、ガスホールだったので、     
建物のデザインもガスの炎だそうな。
その隣にあるのがヤマハホール。イメージ 6
平成22年(2010年)に日建設計の手によって
新しく建て替わっている。
外壁のガラスのパネルには金箔がはめ込まれている。
離れた場所から見るとこの金箔サンドイッチのガラスが
まるで波のように見えるようになっているとのこと。

イメージ 7イメージ 8イメージ 9






銀座を抜け、かつての汐留川だった場所にあった新橋へ。
よくテレビなどでサラリーマンのインタビュー場面の
放映でお馴染みの新橋。
あの「新橋」はこの橋があった場所から少し北になる。
大正14年(1925年)にこの「新橋」の親柱は橋の架け替え時に建てらた。
昭和36年(1961年)頃にこの下に流れる汐留川は埋め立てられ、
橋はこの親柱が残るのみとなった。
新橋のみならず、このあたり、否、「東京市」には川がたくさん流れていて
橋もたくさんあったのだが、戦後、急速にその大半以上が暗渠にされてしまった。
新橋の親柱のあったすぐ横には「東京行進曲」の歌詞が書かれた石碑があり、
またその石碑の後ろには「銀座の柳の2世」とされている柳の木もあった。
『植えて嬉しい 銀座の柳♪』と達筆で石碑には歌詞が書いてあり、
またその脇の照明も東京都の花でもある桜のデザインが施してあった。
かつての汐留川に架かる新橋を渡り(歩き)、歌の通りに電車通りを左に折れると
「旧新橋停車場」跡に建つ「鉄道歴史展示室」がある。
イメージ 10    ↓
 http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/index.html 
 平成15年(2003年)築。
JR東日本建築設計事務所、日本設計が設計
清水組が施工しているが、もともとは
明治5年(1872年)に建てられた、
日本で一番最初の鉄道の停車場だった。

関東大震災で建物が倒壊し、昭和9年(1934年)に再建されるまではこれと同じ
デザインの建物だったようだ。
昭和61年(1986年)までは貨物駅として使われていたがその後、
貨物駅も廃止され建物は解体されて、新たにこの「鉄道歴史展示室」として
明治時代の建物を再現して建て直された。  イメージ 11
個人的には昔の汐留貨物駅の建物の方が馴染みがあり、思い出も深い。
こちらで展示物を見学させていただき、
何点か資料も購入させていただいた後に係員の方に
あるお願いをしてみることにした。
ここは旧工部省、鉄道省の「停車場」だった場所だが、
東京市電の前身である「東京馬車鉄道」は開業当時はこの停車場の軒先を借りる形での営業だった。
市電唱歌ができた頃には馬車鉄道ではなく、
電化が完了していたので旧新橋停車場を利用することなく、
電車通り(現在の中央通り)に乗り場を構えての営業になったはずなのだが、
そのあたりの資料や詳しいお話を教えていただければと申し出て、
いろいろな場所や担当者の方々に問い合わせていただいたのだが、
結果的には誰にもわからないとのことだった。イメージ 12

仕方ないので、また電車通りに戻り
ヤクルトホールの玄関前にあった自動販売機で
飲み物を買い、豪雨の中を芝の町々へと
歩くことにしたのだが、あまりにも激しい雨なので
途中で挫折してしまった。
そして、また日を改めて歌詞に沿って第17番から歩くのだった・・・・・
       
18 6月

東京市電唱歌を歩く~第14番

第14番
京橋渡れば更に又    光まばゆき銀座街
道には煉瓦を敷き並べ  並木の柳 風涼し
イメージ 1
通3丁目から京橋方面に歩く。
すでに明治の頃の建物などは微塵もない。
横目に川崎定徳日本橋本社ビルを見ながら進む。
川崎定徳ビルというよりは、三菱UFJ信託銀行の建物と
言った方がわかりやすいかもしれない。(写真左)
平成元年(1989年)築。
坂倉建築研究所(株)・坂倉インターナショナル・三菱地所の設計で、施工は清水建設・戸田建設・西松建設・
ナカノコーコレーションだ。
地上8階、地階1階建の美しいビルで昭和2年(1927年)に建てられた建物の
1部を「部分保存」という形で新しい建物に嵌め込んだのだそうな。 

川崎定徳(株)   →   http://www.kawasakiteitoku.co.jp/tate.htm  

坂倉建築研究所 →  http://www.sakakura.co.jp/info/works/office/page/2/

川崎定徳(株)は昔の川崎銀行なのだが、ご本家のHPをご参照あれ。
また、設計した坂倉建築研究所のHPのURLの頁をクリックしてスクロールすると
この美しい建物の内部なども写真が載っている。
近頃の建築も非常に美しいのがよくわかるし、どうやったらこんなに素敵な
デザインが思いつくのだろうかと考え込んでしまうほどだ。
外観よりも内部の空間の造りはHPを拝見するとため息が出る。
イメージ 2工事中の明治屋ビルを過ぎ京橋の手前左に
相互館110タワーが見える。
平成24年(2012年)にできたビルで
地上12階地下3階屋上1階建だ。
設計・施工ともに清水建設。
三代目のビルで初代の建物によく似ている。
初代の建物は、大正10年(1921年)に
辰野金吾氏と葛西萬司氏の設計、
施工は今と同じ清水建設だった。
個人的には二代目の建物の方が馴染みは深かった。
イメージ 3イメージ 4初代の建物の写真は
日本建築学会のデータベースに載っているのだが、
有償貸し出しの画像なので
閲覧はできるがURLなどを
載せるわけにはいかないので
興味ある方は検索を・・・
清水建設のHPにはアタシの撮った写真よりももっと美しい
写真が載っているのでそちらをご覧いただければと思う。
http://www.shimz.co.jp/tw/pr/1208index.html
イメージ 5
そしてここを通りすぎるとすぐ京橋を渡る。
(写真はかなり以前に当ブログでもアップした画像)

過去記事だが、「銀座1丁目交番」というのを
建物の書庫でアップしているので
そちらを読んでいただければ、
京橋に関しての記述がある。 

http://blogs.yahoo.co.jp/munyuchan2002/39884930.html

イメージ 6イメージ 7ちょうどここを歩いた時は
日枝神社の山王まつりの時で御仮屋を設営しているところだったので、声をかけてから撮影させていただいた。

イメージ 8イメージ 9この日枝神社に関しては
ブログ仲間の
眼とろん星人スジャータさんが
実に素晴らしい考察記事を
書いていらっしゃるので、
紹介させていただくことにする。(本当にすばらしい記事だ)

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54978445.html


そして京橋から銀座に入ると確かに「光まばゆき銀座街」が目に前にあった。
イメージ 10銀座から京橋方面を振り返って撮った。
右側に写っている大きなビルはこの秋完成予定。
その名も「KIRARITO GINZA」だそうな。
光輝くような商業施設にとの願いをこめての
命名だとのこと。
浅井謙建築研究所(株)設計で鹿島建設の施工。
地上12階、地下3階建の建物だ。

イメージ 11イメージ 12「KIRARITO GINZA」
まるでこの市電唱歌を
知っていたのだろうか?
京橋渡れば更に又
光まばゆき銀座街との
歌詞にぴったりの名前の
建物だった。

この秋に完成したら、それこそ照明で光まばゆいだろう・・・

イメージ 13そして、並木の柳 風 涼し の柳は残念なことに現在は
市電が通ったであろう道には植えられておらず、
この道と交差している横に走っている小さな通りに
植えられている。
その本数は決して少なくはない。
写真は銀座というよりは新橋寄りギリギリにある
天ぷら天国(てんくに)の横の御門通りの柳だ。



そして第15番の歌詞の沿って再び豪雨の中を歩く・・・






7 12月

東京市電唱歌を歩く~第13番

第13番
商家は櫛の歯を並べ   ガス燈電燈夜を照らし
通り三丁 四丁目や    続く中橋広小路
 
かつて櫛の歯を並べたように建ち並んだ商家は現在では、
そのほとんどがビルとなってしまっているが、やはり老舗がかなり残っている。
イメージ 1
 
明治7年(1874年)にガス燈がこの通りに
設置される。
明治19年(1886年)には「東京電燈」設立。
電気の送電が翌年から行われている。
 
この唱歌が作られる以前から
すでにガス燈も電燈もこの地に通っていた。
 
 
そして通り三丁、四丁目は今は都営バス停にのみ残る呼び名。
イメージ 2
 
実は、この「通り三丁目」のバス停はかつての
「通り四丁目」にあたり八重洲通りにある。
 
日本橋を起点として、中央通りを挟む形で
(日本橋)通り一丁目から四丁目というのがあった。
町名変更を繰り返しもうなくなってしまったが、
恐らく、日本橋から一町ごとに一丁目から四丁目が
あったのだろう。
ただ、昭和の初め頃はこの辺りは通り三丁目と
町名変更となっていたのも事実だ。
 
イメージ 3イメージ 4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
突き当たりは東京駅の八重洲口。
その前に通る八重洲通りにそのバス停もある。
だが、あくまでも当時の東京市電は、中央通りを走っていた。
昔から、この中央通りが「電車通り」と呼ばれていたくらいだ。
 
江戸時代に存在した「中橋」の周辺にあった「中橋広小路」も一番下の右側の
写真のようになってしまっている。
今では、東京で「広小路」というと「上野広小路」がその名前を残すのみと
なってしまったが、もともと広小路といのがその名のとおり広い路なので
あちこちに存在した。
そして、第14番の歌詞に沿って京橋、銀座へと足を延ばした。
27 7月

東京市電唱歌を歩く~第12番

第12番              イメージ 1
須田町 鍛冶町 うち通り
今川橋よ 本石町
室町すぎて 日本橋
さても 都の大通り
 
 
御成り街道をそのまま進み、
万世橋を渡るとすぐに「須田町」。
そしてその先にはJR神田駅がある。
駅を過ぎてすぐに写真右上の「鍛冶町」の丸石ビルがある。
昭和6年(1931年)竣工、山下寿郎建築事務所設計、竹中工務店施工。
非常に大きな建物であの丸石自転車の本社だった建物だ。
細部のパーツも非常に美しく見ていて飽きない建物なので、
ネットで検索するとたくさん素晴らしい写真がアップされているので
そちらをご覧いただければと思う。
 
前回の第11番の記事で
「大正6年(1914年)から太平洋戦争くらいまでは、
御成り街道沿いの外神田地区には自転車問屋が集中していた。」と書いた。
その外神田地区から近い場所にこの建物はある。
しかも同じ御成り街道沿いにあったのが、
後年になって手前にビルの別館が建ってしまい通りから少し中に入るような
感じになってしまっている。
確か以前は、縦書きの「丸石自転車」という木製看板が掲げられていた。
比較的近年だったような記憶がある。
 
                  イメージ 2
 「今川橋」はすでに川が
 暗渠となっているのでもうないが、
 左の写真のような碑を建てて
 その前に水を張り鯉を放してくださっている
 ビルがあった。
 「今川橋のあとどころ」と彫られている。
 
 
 
 
以前、サークルの東京編でも書いたのだがお菓子の今川焼きは
この「今川橋」のたもとで売られていたことにその由来する。
西日本に行くと今川焼きではなく、回転焼きとか大判焼きと呼ぶが・・・
 
    イメージ 3            
 中央通りの向い側には
 山梨中央銀行東京支店。
 昭和4年(1929年)の建物で現役だ。
 
 この裏手に本石町がある。
 本石町といえば、日銀本店。
 日銀の近くに銀行が来るのは当然だ。
 
 
 
日銀本店は過去記事を参照していただければと思う。
      ↓
 
 
 ここに記した建物で日銀以外は2つとも、市電唱歌のあとに建てられている。
 
 イメージ 4そして、「室町すぎて 日本橋」へ。
 右の写真の手前に見える「車止め」。
 昔の東京の車止めポ-ルは
 ほとんどこのデザインだったような気がする。
 そして、もう都内でも見るとこはほとんどないが 
 灰皿とゴミ箱が交差点にはあった。
 このポールとゴミ箱と灰皿は3点セットだった。
 
 ゴミ箱は緑色のプラスック。
 数年前にその懐かしいゴミ箱を見つけて
 アップしたことがあった
 その緑のプラスチックは割れてしまったのか??
 ゴミを入れる箱は大きめの空き缶を利用していたが
 外側の枠は昔のままだった。
 
 数年前にそのゴミ箱をアップしているので、過去記事をご覧いただければ
 あぁ、懐かしい!と思う方もいらっしゃるのではないだろうか??
 
        ↓
 
 
そして都の大通りを次に13番に沿って歩いた。
 
       
6 6月

東京市電唱歌を歩く~第11番

第11番イメージ 1
電車は三橋のたもとより   
行く手は昔の御成道
万世橋をうちわたり 
内神田へと入りぬれば 
 
 
 
かつて上野広小路の交差点付近に
三橋という橋があった。
昭和初年に不忍池から流れる忍川が暗渠となり橋も消えたと、
旧町名由来案内に書かれている。
右上の写真の向かって左が上野松坂屋で、真ん中の道路は中央通り。
この道が「昔の御成道」にあたる。
「御成道」と交差している道が不忍通りだ。
写真は上野公園を背にして撮ったものだが、
上野公園寄りには、この「三橋」にちなんだ同じ名前の甘味処があり、
あんみつが美味しいので有名だ。
 
この「御成道」をまっすぐ進むと「外神田」。
アタシの生まれ育った場所でもある。
御成道には、明治9年(1876年)に「外神田の大時計」というのがあった。
明治39年(1906年)に店主が没した後、旧川崎銀行へ売却され
大正5年(1913年)には同行の指示で取り壊されたそうな。
 
東京市電がこの大時計の前を走っていた時代があった。
旧川崎銀行はその後の三菱銀行だ。
市電が開通して数年後、この大時計の近くに「伊勢丹」が創業している。
震災後、人の流れが郊外(新宿)に向かっているため移転したそうな。
 
御成道は、江戸城の将軍が上野に参詣するときに通った道。イメージ 2
この通り沿いには家内工業的な職人が
多く住んでいたそうだが、
大正6年(1914年)の第一次世界大戦後に自転車問屋の町になり、
全国の自転車の7割を生産していたが、
戦時中の鉄鋼統制や空襲などで
台東区などに移転してまた別の町へとなる。
 
上の写真は現在の「アキバ」だ。
御成道の万世橋の手前には電気街「アキバ」がある。
 
万世橋を渡った須田町、小川町、駿河台などの一部が空襲で焼け残り、
そこがヤミ屋の倉庫場所となっていたそうで、
神保町方面までラヂオの組み立て部品などのヤミ市というか、
電気卸部品露天商がかなり広がっていた。
昭和26年(1951年)に進駐軍の命令で露天商155~180軒が
秋葉原のガード下に収容されるも同然の形で集められる。
これが、電気街の始まりだった・・・
イメージ 3
イメージ 4
電気街から万世橋をうちわたるべく歩いていくと、万世橋の親柱付近のコーンも
アキバ仕様だった。
 
 
万世橋は千代田区に
あるのだが、
千代万世すなわち、
「ちよよろずよ」に
繋がるのだそうだ。
江戸城(千代田城)に続く御成道にかかる橋だ。
 
この「万世橋」=神田川が外神田と内神田の境目になっている。
もちろん、千代田のお城に近い方が内神田になるのは言うまでもない。
 
そして、12番の歌詞にそって空襲から免れた地域が多い内神田へと歩く。
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