munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

建築デザイン

6 9月

ふくろうな交番

           P1220899

ユニークな見た目で、あまりにも有名な池袋東口交番。
2005年築。デザインは小学生の公募を基に
佐野建築研究所の長井隆志氏が設計。施工は(株)貴洋。
池袋のふくろう交番の名前で親しまれている。
地名にちなんだ物なのだが、一瞬、昔見た関西の芦屋警察の
建物を思い浮かべてしまった。
1927年(昭和2年)に建てられ、改修工事を受けて
現在でも、そのファザード部分だけは残っている。
その建物にも「ふくろう」の装飾が施されていたからだ。

      63d3c79aa26d508b

13年前のアタシのブログにも書いたが、
「ふくろう」は夜目が利く。
だから、悪いことは見逃さないという意味合いもあったはず。
しかし、この池袋のふくろう交番は威嚇、抑制というよりも
かわいらしいので、親しみの方を強く感じる。
芦屋警察の建物に関しては、詳細はアタシの過去記事に
記載してある。

  
     13年前の過去記事
        ↓
 
5 1月

恵比寿様の鏝絵

岡山県内にある恵比寿様の鏝絵。イメージ 1
蔵の妻に鎮座していらっしゃる。
明かり窓の庇の上には鬼、下には鶴。
庇の妻には松。イメージ 2イメージ 3
窓の格子の中の
扉には松竹梅。
イメージ 4撮影時にその扉は開いていたために松竹梅は一部しか
写っておらず、拡大しないとよくわからない。
外部に施された鏝絵の状態よりも屋内の方がかなり色鮮やかだった。

この鏝絵を作った左官職人の方は40年ちょっと前に他界されている。
昭和20年代から30年代にかけての作品のようだ。
蔵の状態からして昭和20年代後半から30年代前半くらいだろうか?
言うまでもなく、恵比寿様、鶴、松は縁起物。
鬼は魔除けの鬼瓦を見立てたのだろう。
27 4月

第76回活動報告 グンゼ記念館 

京都の綾部にグンゼ記念館というのがある。イメージ 11
大正6年(1917年)築。 
設計は四方亀蔵氏、木造建。
旧郡是本社の建物。
サークル活動は基本、土日に活動なので
なかなか開館している時に見学ができなかったが、
思い切ってグンゼ本社に連絡してみたところ、
サークル活動のことを話し、できれば社員の方の
説明などもお願いできればという厚かましいお願いに
快諾していただき、見学させていただけることになった。

(このサークルでの訪問はかなり以前なので、現在はそのような申し出があっても
 対応していただけるかはわからない。アタシがブログの更新をさぼっている為、
 実際の訪問やグンゼへの交渉はもう何年も前のことだからだ。)

右上の画像がグンゼ記念館。
大正6年(1917年)築。 設計・四方亀蔵氏。 木造地上階建。

すぐそばに昭和8年(1933年)築の旧社屋が残っている。こちらはRC造2階建。
イメージ 1イメージ 2
まるで星のような形の柱が美しい。
見学させていただくのは、
一番最初の画像のグンゼ記念館と
そのお向かいにある旧繭蔵だった
グンゼ博物苑だ。

旧繭蔵だったグンゼ博物苑(右下画像)は明治43年頃(1911年頃)の建物を
改造して繭から糸を作り、それを紡いで作られた製品やそれらを生み出す機械や
歴史などの説明書きがたくさん展示されており、イメージ 3
自分たちの身近な物に関するばかりでとても楽しい。
昔の繭の選別器や靴下製造編み機のような物や
まだストッキングが高価だった時代のストッキングの
ほつれを補修する特別な補修編み機や半袖の肌着や
ブリーフができるまでの実際の工程がわかるような展示物。
写真のアップロードができないのが残念なくらい面白い博物苑だ。

この博物苑を訪れて初めてわかったのだが、グンゼは肌着だけではなかった・・・
肌着の老舗メーカーという認識程度だった自分が情けない。

『エンジニアリングプラスチックの継ぎ目のないベルトを製造し、
 カラー転写機やプリンターの転写ベルトに使われている。』

『耐久性の強い絶縁チューブなどや半導体業界で超純水洗浄フィルター向けの
 部材の紡糸の繊維。』

『菓子、瓶、乳製品、畜肉の用途や医薬、工業でも使用されている二軸延伸複合
 ナイロンフィルム。』

『グンゼの技術はタッチパネルなどにも応用されている。』

『手術用の糸、簡易型自己血糖測定器、骨の接合剤、人口皮膚などや
 その材器も作っている。』

などなど展示内容から新しい発見が続々と・・・・

一番驚いたのがペットボトルのラベル用のフィルムもグンゼの技術だそうな。
社員の方の説明も丁寧、親切だった。

博物苑の展示内容に関しては下記をご参照していただければと思う。
        ↓
http://www.gunze.co.jp/gunzehakubutu/


イメージ 4見学後に受付で繭のお土産をいただいた。
加熱処理後の繭なので固いが、強めに押すと
中が空洞なのがわかる。
博物苑の受付から記念館へ連絡を入れてもらい
記念館の見学に。

こちらの記念館でも別の社員の方が案内をしてくださった。

明治29年(1896年)に郡是製糸会社として作られたそうな。(糸は旧字で糸2つ。)
当初、京都、それも特にこの地方の繭、生糸は粗悪として有名だったそうな。
そこで、蚕糸業組合の組合長の波多野鶴吉氏が羽室組という製糸場を設立。
元農務省次官の前田正名氏を呼び寄せ、彼の産業立国論にある、
『今日の急務は国是、県是、郡是、村是を定むるにあり。』から『郡是』となった。

一株20円で資本金98000円を集め、品質向上のために正量取引を確立。
そして、明治33年(1900年)には毎月5の日と10の日の相場で
生糸売買する成行約定を輸出商社と結ぶ。
やがて全国の業者もそれにならったそうな。

記念館の内部写真もアップロードできないが、上記のURL(グンゼ博物苑)の
サイトで写真をご覧いただければと思う。

イメージ 5グンゼには創立以来の「三つの躾」というのがある。

あいさつをする・はきものをそろえる・そうじをする

当たり前のことだが、その当たり前を実際に行い
継続するのは結構難しいかもしれない。

この三つの躾が書かれたA3の大きな紙もお土産にいただいてきた。
博物苑の社員の方も記念館の方も上記の躾のおかげか誠に感じが良く、
仲良くサークルの集合写真に一緒に納まっていただいた。

記念館に入ったと同時にかなり強い雨が降ってきたので中庭にある蔵を
うまく撮影できなかったのだが、蔵には「是郡」の鏝絵があった。
郡の文字が旧字になっている。
イメージ 6右側のつくりが「邑(むら)」になっている。
この蔵も恐らく設立された当時のものだろう。
蔵の窓の庇の下にある鏝絵もかなり気になった。
だが、雨が激しくて肉眼でもかなりわかりにくい。
目一杯ズームにしてカメラで撮影したところ、
波とあと何かが描かれているようだ。

イメージ 7イメージ 8三つある鏝絵だが、
一つは兎と亀が写っているように見えなくもない。
残り二つは画像を拡大したり
明るくしたりしたが不明だ。


見ようと思えば鳳凰の首が描かれているように見えなくもないのだが、
やはり暗い天候の中、離れた屋内からの撮影だったので無理があったようだ。
イメージ 9イメージ 10
記念館の換気口の模様がなんとなく
ストッキングの網目の模様にも見えるのは目の錯覚だろうか?


記念館、博物苑だけでなく、隣接する建物もそのほとんどが
大正から昭和にかけて建てられたものばかりだ。

強雨にもめげずに撮影はしたものの、レンズの雨滴が写っていたりで
その建物の画像はアップできないくらい悲惨な画像ばかりなのだが
博物苑の展示も記念館の展示も非常に良かったので
雨が降らない日に再訪したいと思っている。
26 9月

きんせ(金清)カフェ

京都の島原にある「きんせ旅館」のカフェ。
この建物の前は何度も通っていたが、ずっと旅館だと思い込んで居た為
カフェが出来ていて利用できるとは全く知らなかった。イメージ 1
数年前にやっとカフェとして利用できることを知った。

約250年前の揚屋建築だそうな。
すぐ近くには輪違屋や角屋もある。
                             イメージ 2
玄関の引き戸を開けるとタイルが敷かれた
小ホール風のスペースがあり、
そこが珈琲豆の焙煎場所となっており

イメージ 3その奥でステンドグラスと鹿の置物が
出迎えてくれている。

床のタイルは泰山タイルだろうか?
                        店内はあまり明るくない為、画像を加工して少し見やすくはしているが・・・
イメージ 4イメージ 5イメージ 6






イメージ 7鳳凰、牡丹、鶴、燕、菊、薔薇、
チューリップなどのステンドグラスが
ふんだんに使われており、離れたところにある
洗面所の床のタイルも素敵だ。
店内のあちらこちらに猫のポスターや雑貨が
置かれており、ご店主さんは猫好きのようだ。

イメージ 8イメージ 9イメージ 10左の真ん中の
画像には、昔の
屋号であろう
「金清」と書かれた温度計が
窓の横に写っている。

部屋の向こうには更に小部屋が続く・・・と言った感じの造りになっている。
このお店は何回伺っても、昔の照明のままなのでうまい具合に
写真が撮れない上に広角レンズでないと収まらない。
とにかく、鳳凰のステンドグラスの下の扉をくぐると
格天井のお部屋とそれに繋がっている隣室が一気に視界に
飛び込んでくるので、それをすべてカメラで撮って記憶に残そうとしても
アタシの撮影技術では到底無理なようだ。
画質は荒れてしまったが、かなり輝度を上げて見やすいように加工し
無理に画像のサイズも小さくしてアップしている。
お天気の日でも、室内に陽光が降り注ぐことはないので結構暗いが
落ち着くことこの上なしだ。
珈琲代だけで、これだけの室内を好きなだけ拝見させていただいけるのは誠に有難いことだと思う。
正直、あまり人様には教えたくないお店の1つだ。
旅館営業もされていらっしゃるので、宿泊も可能だそうな。
カフェは1階部分での営業だ。
何回伺っても、まともな写真を撮れたことが一度もないお店なので
もう写真は撮らずにこの目に焼き付けて雰囲気を愉しむだけにしようと
心に誓っている。



カフェきんせ
  ↓

http://www.kinse-kyoto.com/


                                                  

23 4月

東京市電唱歌を歩く~第15番、第16番

第15番
銀行 会社 商館の ならべる大廈 高楼は 
いずれも石造 煉瓦造 目を驚かすばかりなり

第16番
新橋渡りて 左には 同じ名のある ステーション
線路は同じ大通り 芝の町々走り行く

15番の歌詞の如く 目を驚かさんばかりの美しいビルディング。
ただ、石造や煉瓦造ではなく、すべてRC造だ。
この数年でどんどん美しいビルディングが増えていくのが銀座だ。
東京市電唱歌が作られた時代の建物は残ってはいないが、
電車通りと呼ばれたメイン通りだけでなく、横の通りにも大廈、高楼が並んでいる。

イメージ 1ブルガリ銀座タワー
清水建設の設計 平成19年(2007年)築
その奥に見えるのがルイヴィトン
青木淳建築計画事務所が
平成16年(2004年)に外装設計
外装のパネルが非常に凝っていて
夜になると別の顔を醸し出す仕掛けに
なっている。

イメージ 2ご存知、銀座ライオンの建物。
昭和9年(1934年)築。
菅原栄蔵氏の設計。施工は竹中工務店。
昭和53年(1978年)に大規模な改修工事をしている。
イメージ 3最上階の外壁に
凝った装飾が見える。
この設計者の方は
よくF・ライト氏の作風に
似ているとか評されるが
確かに似ている。

イメージ 4
確かに旧甲子園ホテルを彷彿とさせるモチーフ。
よく見ると、日本家屋の屋根も見える。
屋上の一角に神社があるのだろうか?
昔はよく、建物の屋上に神社が祀ってあった。
今でも社員の方々、もしくは役員の方々が
お参りされるのだろうか??

イメージ 5そしてH&M GINZA(手前) と、ヤマハホール。
H&Mという外資系高級カジュアル洋品店とでもいうか・・・
ここには以前、ガスホールがあった。
ちょっとしたコンサートなどに使われ、
アタシもコンサートの鑑賞で何回か来たことがあったが、
平成20年(2008年)に鹿島・清水建設が共同で
設計、施工を手がけて生まれ変わった。
昔、ガスホールだったので、     
建物のデザインもガスの炎だそうな。
その隣にあるのがヤマハホール。イメージ 6
平成22年(2010年)に日建設計の手によって
新しく建て替わっている。
外壁のガラスのパネルには金箔がはめ込まれている。
離れた場所から見るとこの金箔サンドイッチのガラスが
まるで波のように見えるようになっているとのこと。

イメージ 7イメージ 8イメージ 9






銀座を抜け、かつての汐留川だった場所にあった新橋へ。
よくテレビなどでサラリーマンのインタビュー場面の
放映でお馴染みの新橋。
あの「新橋」はこの橋があった場所から少し北になる。
大正14年(1925年)にこの「新橋」の親柱は橋の架け替え時に建てらた。
昭和36年(1961年)頃にこの下に流れる汐留川は埋め立てられ、
橋はこの親柱が残るのみとなった。
新橋のみならず、このあたり、否、「東京市」には川がたくさん流れていて
橋もたくさんあったのだが、戦後、急速にその大半以上が暗渠にされてしまった。
新橋の親柱のあったすぐ横には「東京行進曲」の歌詞が書かれた石碑があり、
またその石碑の後ろには「銀座の柳の2世」とされている柳の木もあった。
『植えて嬉しい 銀座の柳♪』と達筆で石碑には歌詞が書いてあり、
またその脇の照明も東京都の花でもある桜のデザインが施してあった。
かつての汐留川に架かる新橋を渡り(歩き)、歌の通りに電車通りを左に折れると
「旧新橋停車場」跡に建つ「鉄道歴史展示室」がある。
イメージ 10    ↓
 http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/index.html 
 平成15年(2003年)築。
JR東日本建築設計事務所、日本設計が設計
清水組が施工しているが、もともとは
明治5年(1872年)に建てられた、
日本で一番最初の鉄道の停車場だった。

関東大震災で建物が倒壊し、昭和9年(1934年)に再建されるまではこれと同じ
デザインの建物だったようだ。
昭和61年(1986年)までは貨物駅として使われていたがその後、
貨物駅も廃止され建物は解体されて、新たにこの「鉄道歴史展示室」として
明治時代の建物を再現して建て直された。  イメージ 11
個人的には昔の汐留貨物駅の建物の方が馴染みがあり、思い出も深い。
こちらで展示物を見学させていただき、
何点か資料も購入させていただいた後に係員の方に
あるお願いをしてみることにした。
ここは旧工部省、鉄道省の「停車場」だった場所だが、
東京市電の前身である「東京馬車鉄道」は開業当時はこの停車場の軒先を借りる形での営業だった。
市電唱歌ができた頃には馬車鉄道ではなく、
電化が完了していたので旧新橋停車場を利用することなく、
電車通り(現在の中央通り)に乗り場を構えての営業になったはずなのだが、
そのあたりの資料や詳しいお話を教えていただければと申し出て、
いろいろな場所や担当者の方々に問い合わせていただいたのだが、
結果的には誰にもわからないとのことだった。イメージ 12

仕方ないので、また電車通りに戻り
ヤクルトホールの玄関前にあった自動販売機で
飲み物を買い、豪雨の中を芝の町々へと
歩くことにしたのだが、あまりにも激しい雨なので
途中で挫折してしまった。
そして、また日を改めて歌詞に沿って第17番から歩くのだった・・・・・
       
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