munyuchan

むにゅ’sのぉと

10年以上続けたヤフーブログから引越してきました。 路上観察、近代建築などがメインのブログです。 ライブドアではまだまだ戸惑うことが多いですが、よろしくお願いします。

歴史

30 10月

第43回活動報告 京都魔界ツアー その6

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小野篁と紫式部の墓所と北野天満宮でこのツアーは終了。

写真1枚目、2枚目がそうなのだが、お墓がまるで、女雛と男雛のように並んでいる。

紫式部といえば、「源氏物語」。早い話が平安時代のラヴロマンスのお話。

女性でそのような話を執筆した紫式部は、当時では地獄に堕ちるだろうとまで言われ、

そのために冥界を自由に行き来できる小野篁の墓が横にあるのだという説と、

もしかしたら、この2人の間に何か特別の関係があったとしてもおかしくないのでは?というのが、

妖怪堂さんのお話だったが、この世には男と女しかいないので仮にそうだったとしてもおかしくはない。

だが、この墓は2つとも後年になってこの地に移されたものだそうな。

この後北野天満宮に行くのだが、お正月に配る大福梅だろうか??

大量の梅を日干しにしていた。(写真3枚目)

境内にある、「渡邊綱の燈篭」で妖怪堂さんが衝撃的な説明を始めた。(写真4~5枚目)

写真5枚目の看板を読んでいただければと思うのだが、

妖怪堂のご店主はなんと、この渡邊綱の子孫らしいということだそうな。

なんと、ここで鬼退治=桃太郎伝説といきなり結びついてしまう話に全員びっくり!

新説ではなく、真説桃太郎だそうな・・・

(この桃太郎伝説にはかなり多くの説もあるので、個人的な意見はここでは述べないことにする。)

妖怪堂さんのくわしい説明と、真説桃太郎の話で締めくくりとなった。

メンバー数人がトイレに行っている間に、少し教えていただいた話なのだが、

「絵馬」と言うのは当初は生きている馬を奉納したのだが、

そのうち、生きている馬をたくさん奉納されてもとても神社の中で飼育しきれない。

そこで、板に書いた馬の絵を以って「絵馬」とするようになったそうな。

北野天満宮の絵馬を見ながら、妖怪堂さんの説明にひとしきり感心しながらも暑さで少々バテ気味。

あまりの暑さに、近くの「京とうふ藤野」さんで「豆乳ソフト」を食べに連れて行っていただく。

味は完全に「豆腐」。豆乳というよりは豆腐の味だ。

豆腐が入ったミルキーな味ではないので、豆腐が嫌いな人には不向きだが、

たいていの日本人は豆腐が好きだと思うので、良いのではないだろうか?

甘くもないし、食感がソフトクリームの豆腐なのだ。

ここで一息入れてから、車で京都駅まで送っていただき、

途中、数人のメンバーでセカンドハウス(写真7枚目)で冷たいコーヒーを飲み

涼んでから解散となった。

このセカンドハウスに関しては、6月の活動で訪れており過去記事でもアップしているので

仔細はそちらを参照していただければと思う。






セカンドハウス過去記事
  ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/munyuchan2002/58539996.html
15 10月

第43回活動報告 京都魔界ツアー その4

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京都の松原商店街は清水寺への参道でもあるが、鳥辺野へ亡骸を運ぶ道でもあった。

(だから腐臭が上がってくるを防ぐために、清水の舞台は作られたのは以前にも記述したが・・・)

そして六道の辻にある、六道珍皇寺(写真1枚目)で法要と行ってから、鳥辺野へ葬ったそうな。

だから、この六道珍皇寺は「あの世とこの世の分岐点」だと看板に書いてあった。

お寺の掲げられている2つの提灯には

「あの世への入り口  六道の辻」「この世への出口 六道の辻」と書かれている。

ここには「冥土通いの井戸」というのが残されていて、小野篁がこの井戸から冥界に通ったそうな。

本堂の横の木戸ののぞき穴のようなところから見ることも、ズームで撮影することも可能だ。

ここには、閻魔堂・篁堂もあり、閻魔大王や小野篁も祀ってある。

中には等身大の小野篁の作った閻魔像もあるのだが、

この小野篁という人は小野妹子の子孫でもあり、また小野小町のおじいさんにあたる人で

嘘か誠かわからねども身長が197cmもあったそうな。

有名な逸話に、「無悪善」(さがなくてよからン)と書いた紙を御所に貼った小野篁が、

嵯峨天皇に呼び出され、「{嵯峨}無くて良からん」とはけしからんと問い詰めた際に

字の読み方でいろいろな意味があるのだという例として、

「子子子子子子子子子子子子」と子の字を12書いたものを

「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んで見せて切り抜けたそうな。(写真3枚目)

恐るべし、小野篁!

この小野篁が広めたものには六地蔵信仰もあるそうな。

もともとは、桜の木で六体のお地蔵さんを作ったのが六地蔵の始まりでその後、

日本全国に広まっていったそうだ。

賽の河原の子供を救うために作られたのが地蔵盆だそうな。

境内にある鐘楼は、何故か綱を引くようになっているのだが(写真4枚目)、

これは、霊を返すための鐘なので、鐘を突くと霊が逃げてしまうので「引く」のだそうな。

お盆になると鐘を引いて、霊を迎えるのだそうだ。

お迎えした霊は、『送り火』で一括して霊を返す。

だから、京都には盆踊りがないそうなのだ。

盆踊りとは、お盆休みに集まって踊るのが本来の目的ではない、ということだ。

ちなみに送り火の『大文字』の左右は男女を表しており、右側に大きく見える方が男性で

左側の小さい文字の方が女性になっているそうだ。

夫婦が舟に乗って送られていくのを表現しているそうで、

だからこの送り火に『妙』の字が入っているのだそうだ。

『南無妙法蓮華経』の『妙』だそうだ。

そして、この後昼食を摂ったあとに最後の目的地へと移動した。

続きは次回に・・・・
9 10月

第43回活動報告 京都魔界ツアー その3 

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妖怪堂のご店主の話を聞きながら車は進む・・・

そして謡曲「鐵輪」の「鐵輪の井戸」のある場所の前を車は通過。(写真1枚目)

実はアタシは、歌舞伎のみならず、能も大好きで能楽堂にも通っていた時期があった。

この「鐵輪」というのも、女の怨念を描いた恐ろしい話で、わかりやすく言ってしまえば

『丑の刻参り』のお話のようなものだと思っていただければと思う。

丑の刻参りの時に頭に乗せている、「五徳」のような物が「鐵輪(鉄輪)」にあたる。

この石碑の奥に「鐵輪の井戸」がまだ残っている・・・

謡曲の内容を知っているだけに、おどろおどろした気分になっているところで

今度はいきなり、ハイな気分になれそうな場所に来る。

その名の「天使突抜(てんしつきぬけ」(写真2枚目)

なんでも、少名彦命が、船に乗ってこの地に下りて来たことに由来する地名だそうな。

妖怪堂さんによると、この船は実はUFOだった!というお話。
(ここではあえてその説のは言及しないことにする。で、ないと楽しい遊びも興ざめになるので・・)

このUFOに乗って現れた少名彦命を祀ってあるのが、「天使社」すなわち「五條条天神」で、

その五條天神の境内を突きぬけて作った道なので「天使突抜」という地名になっているそうな。

そして、五條天神といえば、弁慶と牛若丸。

牛若丸(義経)は昔、鞍馬にいたそうで、鞍馬の由岐神社と同じ神様をお祀りしている

五條天神に詣でた際に弁慶と出会っているそうな。

五條といえば、童謡にもあった『京の五条の橋の上~♪』という、五条大橋は現在の橋ではなく、

西洞院通りと松原通りに架かる橋のことだったそうだ。

西洞院通りはかつては川だった場所なのだが、川を埋めて五条橋を移したとのこと。

弁慶と牛若丸は、五条大橋と清水舞台でかつて2度にわたり戦っており、

清水で牛若丸に負けて、家来となったそうだ。

今でも残る松原通りの「松原商店街」は、清水への参道だったのだそうだ。

話が戻ってしまうが、この少名彦命は、妖怪堂のご店主曰く、

「少名彦命は、もしかしたら一寸法師だったのではないだろうか?」とのことだった。

う~ん・・・柳田國男先生や谷川健一先生の世界になってきそうな感じででおもしろい・・・

話が長くなってきたので、続きはまた次回の更新時にでも・・・・
4 10月

第43回 活動報告 京都魔界ツアー その2

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将軍塚の展望台での説明はまだまだ続く・・・・

妖怪堂のご主人の話によると、京の都では、加茂川と堀川を「三途の川」に見立てたそうだ。

一条通りには「戻橋」という橋があり、かつてその橋は葬列の時に通る橋とされていた。

その当時の不浄橋されていたそうだ。

そして、「野」という字のつく地の手前には「辻」があり、「辻」には寺があるそうな。

言われてみれば、京都にはそういう場所が結構ある。

「野」というのは、橋を渡って、肉体を葬るということにつながっているそうな。

いわゆる、「野に葬る」→「風葬」「鳥葬」ということになるのだろう。

だから、鳥辺野や化野などの地名が今でも残っている。

天変地異などで、死者が多い時などは当然、腐臭もすごかっただろう。

その臭いは谷を上がってくるほどだったそうで、その臭いを防ぐために

「清水の舞台」は作られたそうな。

せり出した「清水の舞台」で下から上がってくる臭いをシャットアウトしたということらしい。

現在のような葬式のシステムができあがるのは、平安時代後期だったとのこと。

そのような説明を受けてから、展望台を後にして車に乗り込み京の街に繰り出した。

途中、渉成園(枳殻邸)の「鬼門封じ」(写真1枚目)を横目に車が進む。

鬼門にあたる塀の北東の角を切り取ってしまうことによって、鬼門を封じ込めるので「鬼門封じ」。

そして、鬼門の反対の方角は、「神門」で、そこには「天満宮」を建立するのが常だったそうな。

現にここの神門の方向には。菅原道真の乳母の文子を祀った「文子天満宮」があり、

天満宮発祥の地とされている。(写真2枚目)

話は戻るが、この渉成園は、源融の屋敷だったところだそうな。

この源融という御仁は海の生き物を庭で飼っていたそうで、そのために大量の海水を庭に蓄えており、

結果、海水から塩も作ってしまう。

それが、この渉成園のすぐ近くの塩竈(しおがま)町と言う町の名前の由来だそうだ。

源融の別荘が、現在の平等院だったとのこと。

全く、知らずに宇治には2回ほど行ったのだが、思いおこしてみれば、

源氏物語に宇治十帖があるのでおかしくはない。

逆にそれに気づかず、サークル活動で訪問していたことに愕然とする。

またこの近くに源氏物語にも出てくる、「夕顔の君」の墓も残っていた。

ただし、普通に民家の敷地内に石標が立っているだけなのだが、それもなんともいえない。

さすが、京都だ・・・

写真はすべて移動中の車から撮影したので、わかりにくだろうが我慢していただければと思う。

話が長くなってしまったので、続きは次回に・・・
27 9月

第43回活動報告 京都魔界ツアー その1

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今年の1月に旧駒井邸の見学に行った帰りに寄った町家カフェ「妖怪堂」さんで、

「京都魔界案内」というツアーがあるのを知って、この8月のサークルで参加することにした。

通常の観光コースとは違って、滅多に行かないような場所を案内してくださるというので

てっきり、妖怪スポット巡りを兼ねた、裏京都観光のつもりで7名で参加。

7名以上だと車の都合で金額が高くなるというので、

7名までということでメンバー全員にメールをし、かなり早くから申し込んでおいた。

当日は朝9時前に京都駅に集合。

アタシも始発の電車で京都に向かった。

集合時間を早めにしていたおかげで、9時5分前には京都駅を出発することができた。

気休めに魔よけ代わりにと天然石を身につけて参加してみたのだが、

実際には、そんなおどろおどろしい話もなく、かなり真面目な感じのツアーだった。

最初に東山にある「将軍塚」に行ったのだが、

途中の東山トンネル付近でまず最初の魔界スポット?に遭遇。

ゆるい下り坂を車で走るのだが、目の錯覚で実際は登っているのに、

下っているかのように感じるそうで、ニュートラルに切り替えると車が坂をバックの状態で登る。

香川県にも同様のスポットがあり、そういう話は聞いていたのだが実体験は初めてだった。

人間の目をいうものが、いかにあてにならないかがわかるような気がした。

その後、将軍塚に行くのだが、駐車場に猫が寝ていた・・・

メンバーたちが「猫が死んでる!やっぱり、魔界ツアーだけあって何かある!」などと

話していたのだが、帰りに見たら猫は消えていた。

ただ寝ていただけだったようで一同、安心したのは言うまでもない・・・

将軍塚は京都ではかなり有名な夜景スポットだそうだ。

ここには、日本で最初の小学校である弥栄中学校の前身にあたる寺子屋だった大日堂もある。
                                    (写真2枚目)

そう、当サークルでお世話になっているA先生から何度も教わった、

寺=学校というのがまさしく、これに当たる。

この大日堂で拝観料を払い将軍塚に行くために庭へ向かう。

ここのある展望台で京都の地形などに関するレクチャーを受ける。

かなり長い時間の説明だったのだが、っこでこの地形や簡単な歴史的背景を知っておかないと

長い歴史を持つ京都が余計理解できなくなるので、個人的にはここでの説明はとてもよかった。

まず、京都における怨霊の第一号は「早良(さわら)親王」だそうで、

桓武天皇の実弟だったお方なのだが、クーデターに関与したということで淡路に流刑

島に送られる途中で憤死したそうな。

長岡京遷都にからんでの事件だったらしいが、この早良親王の怨霊を鎮める目的で作られたのが

上御霊神社と下御霊神社だそうだ。

そして、更にこの地に『将軍塚』を作ったそうな。

なんでも、古来から強い武人の武具などを埋めて守護とする風習があったそうで、

時の征夷大将軍の坂上田村麻呂の武具一式を埋めたのが、写真1枚目の将軍塚だ。

木の柵で囲ってあるのがそれで、結構大きいものだ。

この将軍塚の横にある展望台から一望できる京の地形の説明を受けるのだが、

まず、北の方角にあるのが舟岡山。これが玄武にあたるそうな。

今の千本通りが朱雀大路だったそうだが、南には巨椋池というのがあったそうだ。

東寺と西寺は昔からあったそうで、この中間地点が都の入り口で大きな羅城門が配置されていたらしい。

西を守る白虎にあたるのは、山陰街道。

東の守護は青龍で、加茂川。

以前、このサークルでA先生に教わった風水のことを思い出してみた。


A先生は、

東→青龍→流水

西→白虎→大道

南→朱雀→湖沼

北→玄武→丘陵

と、教えてくださっていたのだが、それにすっぽりあてはまる。


加茂川(東)、山陰街道(西)、巨椋池(南)、舟岡山(北)という構図になっている。

これで、東西南北の関係がだいたいだが、つかめた感じがする。

ここに平安京ができあがるのだが、この都に大極殿の8分の5のサイズで建てられているのが

平安神宮だそうな。

今まで、全く知らずに何度も平安神宮に行っていたのだが、この歳になて初めて知った次第だ。

この平安京は約80年くらいは当初の地形のままだったそうだが、

加茂川の氾濫などで、御所の位置がずれたそうだ。

平安京になる以前の長岡京も高野川、加茂川の氾濫で崩壊しているそうで、

そのために平安京になってから、今出川、小川、出水川、西の塔院川、烏丸川を暗渠にし、

堀川にまとめたのだそうな。

約1200年前にできた人工川になるのだそうな。

暗渠となった川は、現在では通りの名前になっているので、イメージはしやすいだろう。

京都へは何度も来てはいるが、単発的にお寺や神社などを見ているだけなので、

地形から歴史的な背景を聞いて、物事を見るということを今まで行っていないので

実際、かなり長い時間の説明だったのだが、この説明は大変参考になった。

ここで、やっと今回のツアーは平安時代が舞台なのだと気がついた。

そして、今でも使われている言葉に隠された意味などを教わった上で

京の町に車で移動するのだが、長くなってしまったので続きは次回の更新時に・・・
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